川上弘美 蛇を踏む 目  次  蛇 を 踏 む  消 え る  惜《あたら》 夜《よ》 記《き》   あ と が き  蛇 を 踏 む  ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。  ミドリ公園を突っきって丘を一つ越え横町をいくつか過ぎたところに私の勤める数珠屋「カナカナ堂」がある。カナカナ堂に勤める以前は女学校で理科の教師をしていた。教師が身につかずに四年で辞めて、それから失業保険で食いつないだ後カナカナ堂に雇われたのである。  カナカナ堂では、店番をする。仕入れやお寺さんの相手は店主であるコスガさんが行い、数珠づくりはコスガさんの奥さんが行う。雇われた、というほどのことはなく、つまりはただの店番である。  蛇を踏んでしまってから蛇に気がついた。秋の蛇なので動きが遅かったのか。普通の蛇ならば踏まれまい。  蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった。 「踏まれたらおしまいですね」と、そのうちに蛇が言い、それからどろりと溶けて形を失った。煙のような靄《もや》のような曖昧なものが少しの間たちこめ、もう一度蛇の声で「おしまいですね」と言ってから人間のかたちが現れた。 「踏まれたので仕方ありません」  今度は人間の声で言い、私の住む部屋のある方角へさっさと歩いていってしまった。人間のかたちになった蛇は、五十歳くらいの女性に見えた。  カナカナ堂に着くとコスガさんがシャッターを開けているところで、奥ではコスガさんの奥さんのニシ子さんがコーヒーを挽いていた。 「今日は甲府まで行くので、よかったらサナダさんも行きませんか」とコスガさんに言われた。ときどきコスガさんのバンに一緒に乗って数珠の卸しに行くことが今までもあったが、ごく近い場所ばかりだった。甲府というのは、遠い。  このところニシ子さんは浄土宗の数珠をいくつもいくつも作っていた。前の日には、ようやく完成したその二百の数珠を箱に入れ包装したのである。どうやらそれを届けに行くらしかった。 「願信寺から少し足を伸ばすと石和《いさわ》温泉もあるし」コスガさんはそんなことを言った。「ニシ子も一緒に行くか。店休みにして」  コスガさんは、すぐにこんなことを言う。ニシ子さんは答えずに笑っていた。ニシ子さんは六十過ぎだが、白髪も少なく、八歳年下だというコスガさんよりも余程若く見える。コスガさんが若い頃修業にと入った京都の老舗の数珠屋の奥さんで、数珠も作るし店もきりまわすし、その店の若旦那があまり店に寄りつかず外で遊んでばかりいるのに朝から晩まで休む間もなく切り盛りをしていたニシ子さんにコスガさんが横恋慕して、結局数年後修業を終えたコスガさんがニシ子さんを口説いて駆け落ちをしたという昔話を聞いたのは、店に勤めはじめてから数週間後だった。この駆け落ち話を店に来るたいていの客——主にそれは得意先のお寺さんであるのだが——は知っていて、いまだに「ご夫婦仲のいいことでよろしいなあ」と軽口を叩かれたりする。コスガさんはそれに対しては「なんまんだぶなんまんだぶ」などと口の中で唱え、ニシ子さんは黙って微笑んでいる。  こういう事情があるので、ニシ子さんの数珠づくりの腕は関東では一番と言われているにもかかわらず、カナカナ堂は辺鄙なこの土地でほそぼそと商売を続けているのであった。 「蛇を踏んでしまいました」  寺からの帰り道、高速道路のサービスエリアでアイスコーヒーを飲みながら私が何気なく言うと、コスガさんは驚いたように「あれっ」と叫んだ。 「その蛇、それからどうしたかね」  両切りのピースをくわえながら、コスガさんはゆっくりと禿げあがった額をてのひらで撫であげた。 「それから歩いて行ってしまいました」 「どこに」 「さあ」  午後遅くのレストハウスには西日が射し、窓の外の車の音が遠く近く聞こえていた。願信寺の住職は骨董に趣味があり、信楽だの志野だのの焼き物や古い棚を庫裏いっぱいに飾っていた。ひとつひとつのものの因縁話を合計三時間にわたって聞かされた。住職にどことなく似た顔の大黒さんが昼御飯にと蕎麦を運んできてくれる合間にも、因縁話はとうとうとつづいた。蕎麦召し上がれ、のびてしまいますよ、と大黒さんが言っても、切れ目ない話のどこで蕎麦を食べていいのかわからなかった。コスガさんはしかし住職の話にふんふん頷きながら、いつの間にか蕎麦をたいらげていた。どうにかしてコスガさんの真似をしようとしたが、私の方の蕎麦はちっとも減らないのであった。やっと住職が蕎麦にかかって少しの沈黙が訪れたときに、慌てて蕎麦猪口を握りすすりこもうとすると、ああその蕎麦猪口はね、と始まってしまった。箸にも蕎麦猪口にも湯飲みにも、そしてその湯飲みの載っている茶托にも、茶托の載っている机にも、机に向かって座っている私の敷いている座布団の生地にも、すべての道具に因縁話があるようだった。  江戸時代に首を斬られた罪人と親孝行で蔵を建てた男と選挙で町長になったやり手と相撲の谷町になるくらいの金持ちだったのが掘っ建て小屋にも住めなくなった零落者と根性悪で火傷をした女と畑から金貨を掘り出した犬と病人用の特殊な吸い飲みの発明で出世した未亡人の話を全部聞きおえると、コスガさんは落ちついた様子で二百個の数珠をバンの後部から取り出してきて住職の前に並べ、代金を受け取ると丁寧に領収書を切って渡した。領収書には毛筆で漢数字が書かれていた。カナカナ堂の書き物はすべてニシ子さんの手による達者な墨書なのである。 「ところでカナカナ堂さん、蛇にかんする話は知らんかね」と領収書をたたみながら住職が言ったときに、大黒さんが呼びにきた。法事があるようだった。 「このごろ蛇が多くてな。このあたりも開けてきたんで住む場所がなくて寺にやって来るんじゃろ」コスガさんと私の目の前で黒い半袈裟を脱ぎながら、住職はつづけた。 「蛇は化けるからねえ」  青く光る袈裟を頭からかぶり、金の帽子をつけると、住職はすっぱいものを食べたときのような表情になって、笑った。コスガさんについて深くお辞儀をしながら、大黒さんに見送られて寺を出た。そのことがあったのでコスガさんに蛇の話をしたのであった。 「サナダさん、それどんな蛇だったかね」  ダンプカーの警笛が汽船の霧笛のように聞こえる。海辺のレストハウスにいるような感じがした。 「中くらいの蛇でした。柔らかくて」  コスガさんは少し頼りないような表情になったが、それ以上何も言わず、ふたたび広い額をてのひらで撫であげてから、席を立った。バンに乗るとコスガさんはラジオをつけた。株式市況が終わり、ポルトガル語講座が始まるころに私はうとうとして、もう蛇のことは忘れていた。カナカナ堂についたのは、英会話の途中であった。  夜のミドリ公園を抜けて部屋に戻ると、部屋はさっぱりと片づいていて、絨毯の中ほどに五十歳くらいの見知らぬ女が座っていた。  さては蛇だなと思った。 「おかえり」女はあたりまえの声で言った。 「ただいま」返すと、女は立ち上がって作りつけの小さな炊事コーナーに立っていき、鍋の蓋をあけていい匂いをさせた。 「ヒワ子ちゃんの好きなつくね団子を煮たやつよ」女はいそいそとダイニングテーブルの上を台布巾で拭き、箸や茶碗を並べた。  いつも私が座る場所に、客用と私用の食器を取り違えることもなく、ごく自然に並べている。前からこの部屋に住みついていたものみたいなふうである。つくね団子といんげんを煮たものやおからや刺身が見る間に並べられた。コップも出してきてビールの蓋を栓抜きで開ける。 「乾杯しましょうか、たまには」そう言って女は私の席の横に座った。言われるままに乾杯をしてビールを飲み下すと、喉がもっとビールを欲しがってすぐにコップは空になった。女がつぎ足すかと思ったが、何もしない。つがれることが嫌いなのを知っているのだろうか。 「ああおいしい」女も言って自分のコップにつぎ足し、それを見た私もまた飲み干してつぎ足し、じきに瓶は空っぽになった。 「もう二本冷やしてあるのよ」女はつくねを皿に取りながら言う。  気味が悪かったが、つくねがおいしそうなので私も皿に取った。女はどんどん食べる。少しだけ箸でつついて汁が出たので、つい食べた。自分でつくったような味だった。つくねを食べてはビールを飲み、いんげんを食べてはまたビールを飲んだ。しかし刺身にはどうしても箸をつけられなかった。蛇が並べた刺身かと思うと、どうにも気味が悪かった。女は醤油と山葵《わさび》をたっぷりとつけて刺身もどんどん食べる。 「今日は仕事遅かったのね」 「甲府に行ったから」答えようと思っていなかったが、ビールに酔ってゆるんだようだった。 「あなた何ですか」つづけて、聞いた。するりと聞くことができた。 「ああ。わたし、ヒワ子ちゃんのお母さんよ」  女は何でもなく答え、冷蔵庫まで行ってビールをもう一本出した。栓抜きでビールの蓋をとんとん叩き、それから栓を抜いた。私のコップと女のコップにビールを均等につぎ、泡をたくさん立たせた。 「え」  母は故郷の静岡に健在だった。父も健在である。弟が二人、地元の大学と高校に在学している。母の顔はテレビで母親役をやることの多いなんとかいう女優の顔に似た日本人の平均的な顔である。女は西洋的な彫りの深い顔だった。睫毛がひどく長い。頬骨が高く、目や口のまわりの皺が皮膚の薄さを感じさせた。  急に心配になって実家に電話をかけるために立ち上がった。番号がうまく思い出せなくて、二回かけそこねた。夢の中でうまく電話をかけることができないときに似ていた。 「もしもし」三回目で母が出て、電話の向こうで「あらヒワ子ちゃん」などと言う。 「もしもし」 「どうしたの」 「いや、元気かと思って」 「元気よ。そっちは」 「元気」 「どうしたの」  あまり電話好きではない質なので、たまの日曜くらいにしか電話をかけない。向こうもそれは承知していて、そのたまの電話も二分くらいで終わってしまう。 「父さんやなんかも元気」 「べつに。普通だけど。どうしたの」 「どうもしないけど」  うやむやのうちに電話を切った。女は電話をかける私を見もしないでぱくぱくと食べたり飲んだりしている。  テーブルに戻ると食べ物はあらかたなくなっていて、女は三本目のビールを開けながら頬杖をついた。 「ヒワ子ちゃんはどうして教師をやめたの」  女はもう何もつままずにビールだけを飲みながら訊いた。母の声を聞いたばかりで隙ができていた。訊かれて、気味が悪いとあいかわらず思いながら、どうせ気味の悪いものになら答えてもいいという気分になった。 「嫌いだったの」 「何が」 「教えること」 「ほんとう」 「………」 「違うんじゃないの」 「違うかもしれない」 「ほんとはどうだったの」  女はさらにビールを飲んで、さらにつぎ足した。女の腕に鳥肌がたっていた。鳥肌のたった腕の皮膚も薄く白かった。 「消耗したからかもしれない」  教師に対して生徒が何か求めてくることは少なかったが、求められているような気がしてきて、求められないことを与えてしまうことが多かった。与えてからほんとうにそれを自分が与えたいのか不明になって、それで消耗した。与えるという気分も嘘くさかった。 「もう寝るわ」  突然女が言って、食べたものを片づけもしないで、部屋に一つだけある柱にからまった。どういう仕掛けになっているのか、女の体は薄くなって柱にぴたりと貼りつき、するすると柱にからまりながら天井に登った。天井に登ってしまうとそこで落ちつき、いつの間にか蛇に戻った。天井に描かれた蛇のようなかたちになって、目を閉じた。  それからはいくら話しかけても長い棒を持ってきてつついても、動かなかった。  朝になっても蛇は同じところにじっとしていた。不用心かとも思ったが、捨てもせずそのまま置き、カナカナ堂に出勤した。  ちょうどまたコスガさんはシャッターを開けているところだった。遠くで鉄砲を撃つような音がしている。 「威銃だね」何も聞かないうちにコスガさんが言った。「サナダさん知ってるかね」  知らないと答えると、コスガさんは威銃のことを説明してくれた。田んぼに来る鳥を追い払うために撃つ爆音だけの銃のことなのであった。長さが八十センチほどの銃であるということだった。 「ここに店を開いた当時は猪なんかも出て、今よりももっと銃音が激しかったよ。もう朝早くからどおんどおんて」  都会で育ったコスガさんはその音を知らず、最初のうちはニシ子さんを追いかけてきたニシ子さんの夫が自分めがけて撃つ銃の音に思えてならなかったと、笑いながら話した。店を開いたころにはニシ子が京都の家を出てから三年以上もたっていたのにね、そうコスガさんは言い、両切りピースに火をつけずにしばらくくわえていた。 「演習の音かと思ってました」私が言うと、コスガさんは、え、という顔をした。 「自衛隊の」重ねて言うと、コスガさんはピースをくわえたまま口を「ああ」のかたちにした。ピースはコスガさんのうわくちびるに貼りついたままくちびると共に上方に移動した。 「戦争の練習ね。練習は大事だよ。大事大事」コスガさんが言い、私は何と答えていいのかわからずに少し首を横に振った。だいじだいじぃ、大事なものはぁ〜、貸し金庫ぉ〜、コスガさんが小さな声で歌いだし、その歌に聞き覚えはあったがどこで聞いた歌なのか思い出せない。威銃がぽんぽんと軽い音で何回か鳴った。  店に入ると空気が冷たかった。ニシ子さんの姿がない。ときどきニシ子さんは店を休むので、きっと今日も休みなのだろうと思った。足の親指が痛くなるのである。ニシ子さんは痛風持ちなのであった。いつもニシ子さんがしているように品物にはたきをかけ店の前に打ち水をし、コーヒーはニシ子さんでないといれてはいけないような気がしたので日本茶を二杯ぶんいれ、それから机に向かって座り、何もすることがないのでお茶を飲んだ。  そのうちに電話が鳴りだしてメモを取ったり在庫を調べたり知らぬ間に時間がたつようになり、外回りから帰ったコスガさんが今日三杯目の日本茶を飲むころには日が傾きかけていた。一人で店番をしているときに蛇のことを考えないでもなかったが、考えようとすると考えが散り散りになってどこかにいってしまう。一回だけ、宵泉寺という得意先のお寺さんからの電話の途中に「へび」という言葉が聞こえたように思えてぴくりとしたが、「かたびら」という言葉の途中がかすれてへびと聞こえたのであった。しかしコスガさんは帰ったとたんに蛇のことをもちだした。 「サナダさんね、あの蛇の話」注文品を帳簿に書き入れながら、コスガさんは言った。 「追い出しなさいよ。来たら」 「来たらって」 「だから、蛇」  顔をあげてコスガさんを見ると、コスガさんも顔をあげて私を眺めた。眺めて、すでに私のところに蛇が来ていることがわかってしまったらしかった。 「駄目か」 「はい」 「どうしても駄目か」  コスガさんは強いような言葉を言いながら、また「だいじだいじぃ〜」と、今朝と同じ歌を鼻の先で歌いはじめた。まのびした気持ちなのかせっぱ詰まった気持ちなのか、コスガさんの場合さっぱりわからない。どちらでもあるのかもしれない。今日いちにち蛇のことを棚上げしてのんびり仕事なんぞしていたことを後悔する心もちになったとたんに、コスガさんの歌っている歌をどこで聞いたのか思い出した。駅前の信用金庫が地区の祭りのときに出す山車《だし》から流れる歌だった。どうやって作詞作曲したのか、演奏したのか、テープにエンドレスで吹き込まれた「だいじだいじぃ〜」の歌は、山車がねり歩く間じゅう流れつづけていて、祭りの日も休まず店を開けていたカナカナ堂の奥にぼんやりと座りながら、「だいじだいじぃ〜」が頭の中にしみ込むのをどうにか阻止しようとした覚えがあった。しかし「だいじだいじぃ〜」は、しっかりとしみ込んでしまっていた。 「追い出しなさいよ」 「そうですか」 「できればさ」 「できますか」  コスガさんは答えず額をてのひらで撫であげた。お札を麻の巾着袋にしまい、レジに鍵をかけた。ガラスケースの中の仏像に向かって「なんまんだぶなんまんだぶ」と言い、ガスの元栓を締め、盛り塩の皿を洗面所の横に置いた。最後にシャッターを閉めて電気を消した。 「よくわからないけどね、しょわなくていいものをわざわざしょうことはないでしょ」  コスガさんはそう言うが、どんなものをしょってどんなものをしょわなくていいのか、しょってみるまでは分からないような気がした。しかしコスガさんには言わなかった。  いないだろうと思ったりいるだろうと思ったりしながら部屋に帰り、すでに蛇が考えの真ん中にきてしまっているのであった。  蛇はいた。女の姿になっていた。 「ヒワ子ちゃんおかえり」と言われると、何年間も言われてきたようになって、 「ただいま」と答える。  女はそれ以上何も言わなかった。風呂に入り、洗濯をした。女の前で服を脱ぐのはいやだったので、狭い風呂場で着替えをした。湿気がうまく取れないままパジャマを着て出ると、女は早速ビールを抜き「さあさあ」と言った。  いらないと言おうとして、しかしビールを見ると一杯だけ飲んでしまう。飲んでしまうとおかずに箸がのび、もう一杯ビールをつぎ、見ると女はすっかりくつろいでいた。 「ねえ覚えてる、ヒワ子ちゃん」女は目のまわりをぽうと赤くさせて話しかけた。 「ヒワ子ちゃんが木から落ちたときのこと」  木から落ちた覚えなどなかった。しかし女はつづけた。 「お隣のゲンちゃんが、ヒワ子ちゃんのおかあさーん、ヒワ子ちゃんが落ちちゃったよー、って叫んだんであたしはびっくりして腰が抜けそうになった」  宙を睨む目つきになって、女は声を少し大きくした。 「行ってみるとヒワ子ちゃんは木の下に座ってて、だいじょうぶって聞くとだめって答えたわよ。だめって、ヒワ子ちゃんらしいわね」  そんな記憶はどこを探してもなかった。 「それ、違う人なんじゃないですか」 「違わないわよ、あたしヒワ子ちゃんのお母さんなんだから間違いなし」 「私の母は静岡にいます」腹が立った。しかし女は涼しい顔である。 「それはそうだけど、でもあたしだってヒワ子ちゃんのお母さんなのよ」 「ばかな」 「ヒワ子ちゃんの知らないこと、あたしいっぱい知ってるのよ」  そう言われて、ぞっとした。  女の皮膚がぬらりと光って、たいそう蛇らしい様子になった。今のこの今、私はこの女をしょってしまった、と思った。今までにも何回かこういった気分になったことがあるような気がしたが、それが具体的にどんな場面だったのかは思い出せなかった。女は愛しそうな視線で私を眺めている。 「ヒワ子ちゃん、あたしヒワ子ちゃんが大事だわ」ねとねとした声で言い、女は丸くなった。丸くなるととたんに蛇に戻って、天井に這い登った。登ってしまうとまた絵に描いたもののようになって、押しても引いても取れない。  なるべく蛇から離れたところにいたくて、布団を部屋の隅に敷いた。寝つかれないかと思ったが、じきに寝つき、朝まで一回も起きなかった。 「サナダさん、今日は声が小さいわね」  お茶を飲みながら伝票の整理をしていると、後ろからニシ子さんが言う。ニシ子さんはさっき店に出てきたばかりでまだ私とは何も会話を交わしていないのに、声が小さいと言う。ときどきニシ子さんはそんなふうに言うことがあって、たとえば出勤したばかりの朝一番に「ゆうべはサナダさん食べすぎたわね」だの「今日はいちにち気が塞ぐわよ」だの言うのである。ニシ子さんの言うことはよく当たる。今日の私は声が小さく目が大きく開かない。 「おはようございます」振り向いて言うと、ニシ子さんは笑った。 「あらやっぱり小さい」  コスガさんが音をたてながら帰ってきた。音をたてているのはコスガさんが手に持った荷物である。荷物は布で覆われている。陳列ケースのガラスの上に荷物を載せて覆いを取ると、箱があらわれた。箱の中で何かがしきりに動く音がしているのであった。 「何ですか」ニシ子さんが聞くと、コスガさんは指をくちびるに当てて「しっ」と言った。 「あれ」 「ああ、あれ」  聞かないふりをして伝票をつけながら背後を窺ったが、もうそれ以上二人は何も言わなかった。ピースの匂いがして、コスガさんのため息が聞こえた。  昼になるとニシ子さんが天丼を取ってくれて、三人で店の奥の小部屋に座って食べた。月に一回くらいカナカナ堂は天丼の上をふるまってくれる。上の天丼には海老が一匹とぬか漬けの茄子が多くつく。  コスガさんは今日回ってきたお寺さんの話をした。寺を継いでほしい息子さんがアメリカに行ってしまって困っているという。アメリカで古着を買いつけてきて日本で売りさばく。古着など今の日本で売れるのかと聞くと、なんでも稀少価値のあるジーンズで、一本数十万円で売れることもあるのだそうだ。 「若い人の間でそういうのがはやってるの?」コスガさんに聞かれたが、知らないので「さあ」と言うと、コスガさんは不思議そうな顔をする。 「そういえばサナダさんはこのごろの若い人と違う服着てるね」  コスガさんの言うコノゴロノワカイヒトという人たちがどんな人を指すのかわからないので黙っていると、ニシ子さんがたしなめた。 「昔のように、四条河原町を歩けば知ってる人に会うっていう時代じゃないんですよ」  コスガさんは「まあねえ」と答えて、海老をばりばりと食べた。私は蛇のことを思い出していた。コスガさんやニシ子さんと話をするときのような、最初から壁を隔てたような遠い感じが蛇にはなかった。コスガさんの言うコノゴロノワカイヒトと話をするときにも壁はあって、たとえば私が教師をしていたときの生徒だとか同僚だとか、それを言うなら母にも父にも弟に対しても、薄かったり厚かったりするが壁というものはあって、壁があるから話ができるともいえるのであった。  蛇と私の間には壁がなかった。  天丼はいつものように腹にもたれ、夕方まで私は声が小さく気分がすぐれなかった。  ミドリ公園を歩きながら、曾祖父のことを思い出した。曾祖父という人はお百姓で、五反の田んぼと茶畑を持っていた。ある日出奔した。しばらく音沙汰がなく、曾祖母は五人の子供をかかえて野良仕事を一人でこなした。三年後の春に帰り、曾祖母との間にどんな話がなされたかはわからないが、結局何事もなかったかのように元のさやに納まった。つつがなく年月は過ぎたが、曾祖母が死に五人の子供たちが育ちさらに孫が生まれ体がきかなくなってから、突然出奔していたときのことを話すようになった。  曾祖父は鳥と暮らしていたのである。  鳥は女の姿をしてある秋の日に曾祖父を誘いに来たのであった。かぐわしい香りをさせた手のきれいな女に魅入られて、曾祖父は家を捨てた。二年間そのまま遠い土地で暮らし、しかし三回目の冬に女は曾祖父を疎んじはじめたのであった。 「鳥の本性が出たんだね」曾祖父は語ったそうである。 「おまえのような甲斐性のない男ではわたしに卵を産ませられない、そう鳥は言うようになった」そんなふうに曾祖父は語ったのである。 「私は巣をつくりたいんだよ、そう言って鳥はばたばた飛んでいってしまった。それでわしは家に帰った」  その話を母から聞いたのは中学生くらいのときで、へんな寓話だと思った。教訓のない寓話だと思ったのである。今思い出しても、教訓を引き出すことができない。家族を捨てて碌でもない女についていっても身の破滅が待っているだけであるか。しかしそれにしては曾祖父は女との暮らしを愉しみすぎたようだった。女はわからないものであるか。それにしては女の言うことは真っ当すぎるようだった。明治時代はかく父権が強く女は出ていった男が帰っても責めることすらできなかったゆえに女性はもっと自我に目覚めねばならぬのか。それにしては曾祖母はそれほど曾祖父におしひしがれて生きたようには聞こえなかった。  寓話ではなく実際の話だったとしても、今の私とは違う話だと思った。それでも鮫に食われそうになった人間がくじらに飲み込まれた人間の話を思い出すような感じで、思い出したのである。  ミドリ公園の枯れ葉がぴゅうと舞った。夜も近いというのに、子供が何人も出て大声をあげている。自転車に乗っては風をきって公園の遊歩道を走り回っている。後ろから何台もそういう子供の乗る自転車が私を追い越していった。そのたびに髪がなびき、子供と自転車のつくる鋭い気配が通りすぎた。  喉の下にぜいぜいするかたまりが溜まっていくような気分だった。 「あなたはいったい何ですか」開口一番に聞いた。酒や食べ物を勧められてからでは聞けない。急いで聞いた。 「ヒワ子ちゃんのお母さんに決まってるでしょう。何回言わせるの」  女は枝毛かなにかを調べながら答えた。いつもは上げている髪を下ろしている。長い髪である。髪を下ろした女は少しふけて見えた。 「意味がわかりません」 「わからないですって」  女は口を大きく開けた。蛇なので舌が二股に割れているかと思い、一瞬目をそむけたが、べつに割れてはいなかった。ごく普通の人間の舌だった。 「ヒワ子ちゃんはいつもそうやって知らないふりをするのね。あんまり感心しないわ」  そう言われても、わからないものはわからない。 「あたし、今日はこのへん散歩してみたの。いいとこね」口調を変えて女は言った。 「そうですね」 「ちょっと子供が多いけど。最近の子供ってしつけが悪いわね」 「そうですか」 「山羊がいたわよ。成田さんていうおうち。ヒワ子ちゃん知ってた?」  そんな会話を交わしているうちに、また酒になって食事になってしまった。食べて飲みながら、女が「ほら知らないふり」と心の中で笑っているような気がして何度でも女を見た。実際に女は笑いながら酒をつぎ汁物を温めた。女は美しく、私は女の顔が好きだった。  蛇が来てから二週間が過ぎ、カナカナ堂は棚卸しの時期になった。春と秋にカナカナ堂は棚卸しをする。床から天井まである棚が売り場の裏に三列あり、そこの品物と売り場の品物を、はじからニシ子さんがつくったわら半紙のメモに書きつけていく。タガヤサン本メノウ仕立て十。本水晶一輪七。好文木十二。そんなふうにメモしていった紙をニシ子さんが受け取り、帳簿に書き込む。昔ふうのやり方である。  サナダさんはパソコン使えるかね、とコスガさんはときどき言うが、在庫管理にパソコンを使うほどカナカナ堂は大きな取り引きをしてないから、とニシ子さんが答えると、コスガさんがすぐにそうだねえと言って話はおしまいになる。しかしまたしばらくするとコスガさんは、サナダさんパソコンて便利かねと言いだす。言いだすが、それきりだ。  昼過ぎ、コスガさんがまた箱を持って帰った。  箱の中では何かがしきりに動いている。ニシ子さんが箱を倉庫に置きにいった。棚卸しは半分まで終わり続きは明日ということになったので、私はおやつの茶菓子を買いに外に出た。コスガさんがついてくる。 「サナダさん、ちょっとそのへんでお茶でも飲むか。買い物はいいよ今日は」  駅前の喫茶店でコスガさんと向かい合い、前にもこういうことがあったと思ったら、甲府の寺の帰りの高速道路サービスエリアだった。 「まだいるかい、蛇」予想どおりコスガさんが訊いた。 「ええまあ」  蛇は居ついていた。夜部屋に帰ると食事の支度ができているのが私は嬉しかったのだろうか。電気のついていない部屋がいやだと思ったことはなかったが、共に暮らし始めてみるとなじんでしまうものである。 「今日は話があって」コスガさんはそれ以上私の蛇のことを追及しなかった。そのかわりにこんなことを話した。  実はもう二十年も前からうちにも蛇がいる。ニシ子についてきたものらしくて、ニシ子の叔母だと名乗る。最初は邪魔だし気味も悪いしどうにか追い出そうとしたが、追い出せない。何かと追い出せないめぐりあわせになってしまうのだ。急に親戚が危篤になったり夫婦仲がしっくりいかなくなったり怪我をしたり、いざ追い出そうとする態勢になるとそんなことがつづけさまに起こった。お祓《はら》いをしてもらったこともあったが、祓う方も特に悪いものは憑いていないなどと言う。祓ってもむろん消えない。そのうちにいることが自然になって、いてもいなくても気にならなくなった。ところがこのごろ蛇の死に際が近くなったらしく、人間の姿をとれなくなってきた。人間になってもごく短い。蛇のままいて、蛇の嗜好を発揮する。小鳥や蛙を呑みたがる。今日も小鳥を買ってきてニシ子に渡した。ニシ子は何を思っているのか、もう蛇など捨ててしまえという言葉に頑固に首を横に振り、嬉々として蛇に生餌を与えている。こうなるとニシ子のことがわからなくなる。こわいような心もちになる。  コスガさんは額をてのひらで三回撫であげ、 「こわいよ僕は」ともう一度言った。  こわいという言葉にコスガさんのどんな気持ちがあるのか、こわいと言われればこわいようにも思うし、蛇がこわいのかニシ子さんがこわいのか、そんなことはコスガさんにもわからないのだろうが、そうすると私は蛇に言われた「ヒワ子ちゃんはいつもそうやって知らないふりをするのね」という言葉を思い出してしまうのである。  喫茶店でコスガさんはそのあとホットケーキを頼み、私は洋梨のシャルロットを頼んだ。一時間ほどいて、またカナカナ堂に帰った。  女に肩を叩かれた。振り向くと女は頬ずりをしかけてくる。女の頬はひやっこかった。愛玩動物を抱きしめているときのような、または大きなものにすっぽりと覆われているような、満ちた気持ちになった。女は頬ずりをしながら私に両腕を巻きつける。巻かれた腕もひやっこく、女の指先は少し蛇に戻っているようでもある。蛇に戻っていたとしても、気味は悪くない。むしろ蛇であった方が心丈夫なのである。蛇ではない、女のままの姿のものが私を絡め巻き取っているとすれば、その方がよほど落ちつかない。女の身長は私とまったく一緒で、女と私は対になったもののように腕をお互いの体に巻きつけあう。  巻きつきながら、女が言った。 「ヒワ子ちゃん、蛇の世界はあたたかいわよ」  うんうんと頷くと、女はつづける。 「ヒワ子ちゃんも蛇の世界に入らない?」  いやともいいとも取れる首の振り方をして私は蛇の抱擁から静かに身をはがした。  蛇の世界にはそれほど魅力を感じなかった。私がそう考えていることは蛇にもわかっているのだろう、こんどは腕を巻きつけずに私の正面に座って膝をかかえた。 「ヒワ子ちゃんは何かに裏切られたことはある?」  誘うような目をして訊いた。  何かに裏切られるというからには、その何かにたいそう入り込んでいなければなるまい。何かにたいそう入り込んだことなど、はて、今までにあっただろうか。  何人かの女や男との気持ちやからだのつながりだの、ある期間毎日通った場所での誰か彼かとの押し引きだの、幾つかのことを思い出したが、思い当たらない。ただ思い出せないだけで知らずに忘れていようとしているのかとも考えるが、ものごころついてから知らずに忘れるくらいのことなら、たいそう入り込むとも言えぬほどの事柄だろう。 「ないような」  そう答えると、女は口を広げて笑った。  それから女が重ねて訊ねるかと待ったが、もう何も訊ねない。訊ねず、天井にするりと登って私を見下ろした。 「ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃん」としきりに呼びながら、蛇のかたちに戻った。蛇のかたちになっても、 「ヒワ子ちゃん」  そういう音が止まない。  蛇のたてる衣擦れみたいな摩擦音に混じって、「ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃん」とも「シュルルルルウシュルルルルウルウルウ」とも聞こえる音が鳴りつづけている。  強風の晩に聞こえるような、不思議な音だった。  カナカナ堂にいくと、ニシ子さんがぼんやりと座っていた。  打ち水もしてあり、盛り塩もいつもより高く盛ってあり、店の中はきれいに磨きあげられていた。コスガさんはいない。 「おはようございます」 「ああ、サナダさん」  漂流してきてやっと陸に上がった遭難者のような声をニシ子さんは出した。何かがニシ子さんの足元にいる。気配がするのである。 「今日はお店、早く開けたのよ」ニシ子さんはぐったりしたまま言った。 「何時ごろですか」 「そうねえ、朝の四時ごろ」  えっ、という声を呑みこんで少し後じさった。後じさった拍子にニシ子さんの足の下に竹の籠が置いてあるのが見えた。気配はどうやらその中から漂ってくるらしい。 「なんだか眠れなくなってねえ。このごろは夜明けが遅くなってきたから、いつまでも暗くてつまらなかったわ」  それではニシ子さんは午前四時にシャッターを開け、電灯を煌々と灯し、店の中をがさごそと動きまわっていたのだろうか。動くのに飽きると、じっと座って真っ暗な外を見つめたりしていたのだろうか。 「コスガさんはもう出かけたんですか」 「さあ。今日はまだ見ないわねえ。まだ寝てるかもしれない。このごろよく寝るのよあの人。寝てばっかりいて人間じゃないみたい」  いやに突き放した言い方をする。籠の中で、何かが動いた。 「あのう」  そう言うと、ニシ子さんが顔を上げた。ニシ子さんの顔の中で目が光っている。最初細く窄《すぼ》められていた目が次第に大きくふくれ、涙を湛えながら膨張してきた。 「その籠、何ですか」  ニシ子さんの目がますます大きくなる。見開かれ、剥かれ、ついには白目が黒目のまわりじゅうを覆い、目玉の三分の一くらいが露出したようになった。と思ったら、すぐに元に戻る。 「籠ね。ただの籠よ」  ふたたびニシ子さんの目が大きくなり始める。目玉だけ別個の生き物みたいに、ぐんぐん膨れた。 「蛇じゃないんですか」 「見る?」  ニシ子さんが、見る、と聞いたとたんにまた目玉は元に戻った。店の空気がいつもと違っていた。コスガさんはいったいどうしたのだろう。ほんとうに人間でないもののようになって、いぎたなく寝ているのだろうか。  ニシ子さんが籠の蓋を開けた。大きな青黒い蛇が一匹、死んだように長くなっていた。 「あ」  私が声をあげた途端に蛇は頭をもたげ、ニシ子さんに似た光る目でじっと見つめた。ニシ子さんは薄ら笑いをしている。  蛇よ。サナダさんのところにも一匹いるそうね。聞いたわよ。水くさいじゃないの、教えてくれればいいのに。サナダさんもそういう人だったのね。なんだか安心したわ、なんだかサナダさんが好きになっちゃったわ。あたしはね、これであんがい人の好き嫌いが激しいの。サナダさん、そうは思わなかったでしょう。毎日盛り塩をして数珠をつくってそれで昔駆け落ちをした、自分には関係ない人間だと思ってたでしょう。好きにもならず嫌いにもならず、それで毎日普通に過ごしてるつもりでいたでしょう。そういう毎日がいいんだと思っていたでしょう。あたしはね、好きになるとずいぶん好きになっちゃうのよ。コスガのことだってずいぶん好きだったわ。でもコスガはあんまりあたしのことが好きじゃないのよね。好きが裏返って嫌いになってまた裏返って好きになってあと三回くらい裏返ってそれで少し嫌いなのよね。でもそういう嫌いの中には好きがまだらにまぶされているから、コスガはすごく気分が悪いんだわ。だから寝てばっかりいるのよ。  ニシ子さんは小さな声で喋った。蛇が籠の縁からつるつる這い出て、ニシ子さんの胴に絡まった。  ねえ。サナダさんの蛇はどんな蛇なの。あたしの蛇はね、もうすぐ死ぬわ。あたしは悲しくてしょうがない。こんなに愛してるのに。あたしはね、蛇になりたかった。どうしてあのとき蛇の世界に行かなかったのかしら。誘われたのよ。サナダさんも誘われるでしょう。蛇は何回でも誘うわ。でもあたしは何回でも断った。そんな人の道にはずれるようなこと、しちゃいけないと思ってたのね。人の道って、自分でも何のことだか分かってなかったのだけれど。蛇はあきらめたのかしら。最後には誘わなくなった。あれからどのくらいたったかしら。今ならすぐに頷くのに。蛇の世界はきっと素敵よ。暖かくてぜんぜんあたしと違ったところがなくて深く沈んで眠っていられるようなところだと思うわ。どうしてサナダさんは蛇の世界に行かないの。ねえ。蛇の世界はほんとうに暖かいのよ。  暖かいのよ、というニシ子さんの声が、私の部屋にいる女の声のように聞こえる。まったく違う質の声なのに、同じものが言っているように聞こえる。そのうちに自分がカナカナ堂にいるのだか部屋にいるのだか不明になって、しかし実際のところはただニシ子さんがふわふわした声でニシ子さんの感慨を述べているだけだということは承知している。承知しながら、ニシ子さんの言うことを鵜呑みにしたいのである。鵜呑みにすればすぐにも蛇の世界に行けるのだろうか。鵜呑みにして蛇の世界に入って知らないふりをして眠っていられるのだろうか。  知らないふり、その言葉を思いつくと急に背中いちめんがぞくぞくとした。ニシ子さんの目玉はもう膨れておらず、いつもの細い一皮目に戻っていた。蛇はニシ子さんの胴に変わらず巻きついていたが、しおしおして艶がなかった。そのうちニシ子さんは喋り止め、カナカナ堂はいつものカナカナ堂のようになった。蛇の鱗がささくれ立っていた。  蛇といえば、思うことが少しあるのだ。  人と肌を合わせるときのことである。その人たちと肌を合わせる最初のとき、私はいつも目をつぶれない。その人たちの手が私を絡め私の手がその人を巻き、二人して人間のかたちでないような心持ちになろうというときも、私は人間のかたちをやめられない。いつまでも人間の輪郭を保ったまま、及ぼうとしても及べない。目を閉じればその人に溶けこんでその人たちと私の輪郭は混じりあえるはずなのに、どうしても目をつぶれないのである。  目を開けたままその人たちが動いたりそのひとたちが私に対抗したりその人たちが私に屈したりするのを見るだけなのである。  最初のときが過ぎて何回かその人たちと肌を合わせるならば、次第に私の目は閉じはじめ、固かった皮膚の表面がゆるりと流れだし、そのうちに知らず知らずとかたちが変わってくる。及ぼうと思わなくとも、及ぶかたちになる。  その、ようやく及べるようになったときに、その人たちの姿はいつも一瞬蛇に変わるのである。私が蛇になるのではなく、その人、私の相手であるその人たちが赤や青や灰色やのさまざまな蛇のかたちになるのであった。  それは、いつもそうだった。蛇になる前に肌を合わせることをやめてしまったその人たちもいたが、そうでないその人たちは、必ず一回蛇になった。  なぜ私が蛇にならずにその人たちが蛇になったのか、実際にはその人たちが蛇になっているときには私も蛇になっていたのか、しかし私はその人たちが蛇になった瞬間のぞわりとした粟立つような感じを今でもはっきりと覚えているのである。自分も蛇になっていたなら、あのような粟は立つまい。  夜になれば女は蛇のかたちをとる。この蛇は私を粟立たせたりはしない。女はそのことを、知らないふり、と言って蔑むだろうか。天井で、ヒワ子ちゃん早くいらっしゃい、知らないふりをしてないで蛇の世界にいらっしゃい、そういう含みでシュルルルルウの音をたてるだろうか。  コスガさんの影が薄くなっていた。  紫檀の仏壇の扉を開こうとしているコスガさんを、後ろから見たのである。扉に手をかけたコスガさんは、陽炎《かげろう》を通して見るもののようにうつった。 「コスガさん」と思わず声をかけた。 「何ですか」コスガさんは振り向いて言う。コスガさんの目や鼻や口は色が抜けて、少しのっぺらぼうに近くなっていた。 「どうしたんですか」聞くと、コスガさんは不思議そうな顔をした。 「サナダさん、今日はいやに色が濃くないかい」反対に、そんなことを言う。  コスガさんは仏壇から離れて私のところにやってきた。私の顎をてのひらで何回か撫でた。動物を撫でるようなやり方だった。 「サナダさん、少し変わってきたね」そう言いながら、さらに撫でる。 「サナダさんのまわりの空気がぴりぴりと立ってるよ」  あのあと、ニシ子さんは蛇を巻きつかせたまま、夕方までいた。コスガさんは結局店に来なかった。客は一人も訪れず、ニシ子さんも蛇もほとんど動かずにじっとしていたのだった。私は棚卸しの後始末をしたりニシ子さんに教えてもらっている帳簿のつけかたを古い帳簿で復習してみたりして過ごした。ニシ子さんからも蛇からも何の気配も漂ってこなかった。時間がたつにつれて、ニシ子さんも蛇もますます置物めいた。  帰る時間がくると、ニシ子さんはゆらゆらと立ち上がり、用意してあったらしい祝儀袋を懐から出して渡した。ボーナス。そう言って渡してくれた。  渡されて頭を下げ、戸締りのことを訊ねると、ニシ子さんはどちらでもいいように頷いたのであった。蛇やニシ子さんを背中に感じながら、戸締りをしてニシ子さんのいる場所だけ残して電気を消し、カナカナ堂を後にした。ニシ子さんも蛇も、電気のつくるスポットの中でふたたび置物になっていた。これがニシ子さんを見る最後かもしれないと思いながら、私は店を出たのであった。  思った通り、それからニシ子さんはカナカナ堂に来なくなった。 「コスガさん、ニシ子さんの様子はどんなですか」 「だいぶいいんだけど、まだうまく歩けないな。医者はもう少し動いた方がいいって言うんだが、おっくうがって」  あの翌日、コスガさんがニシ子さんの怪我を伝えたのであった。階段で転んだのだという。蛇を巻きつかせたまま階段なんか登ったので、足元が不確かになって転んだという。 「蛇はね、つぶれたよ」コスガさんはあまり気の入らない声で説明した。 「つぶれたんで、庭に埋めたよ。ニシ子に聞いたら、そのへんに埋めてくれって言うから」  コスガさんは頼りないふうに首を何回かまわして、それから「よっ」という掛け声と共に近くの寺に届ける数珠の入ったダンボール箱を肩にかついだ。ニシ子さんが作った最後の数珠だった。星月菩提樹の一輪念珠である。ニシ子さんはいつものように丁寧にその数珠を作っていた。数珠を引っかける棒台に、少し背を屈めるようにして向かいながら、正座をして無言で数珠を作っていた。 「ニシ子は死ぬかもしれないなあ」コスガさんが言うので、驚いてコスガさんの顔を見た。ますます色が薄くなって、精気が抜けていた。 「まさか」 「死んだらつまらんよなあ」コスガさんは額をてのひらで撫であげながら言った。  線香の匂いが一瞬強くたって、カナカナ堂の空気がざわめいた。何匹もの目に見えない狐みたいな狐でないみたいなものがカナカナ堂の中をよぎったようなざわめきだった。コスガさんはもう一度額をてのひらで撫であげた。 「つまらんから、死なないでほしいなあ」私にとも私でないものにともなくコスガさんはつぶやき、ダンボール箱をかつぎなおして店を出ていった。  その日はそれから一人でお茶をいれて、昼には思いついて天丼の上をとり、客の相手の合間に帳簿をつけた。帳簿をつけながら、蛇のことをときどき考えた。  部屋じゅうに蛇の気配が充満していた。女、ではなく、蛇、だった。  女の姿はなく、卓上には食事の支度がしてあった。今夜はもう女は帰ってこない、そう思った。  引出しを開けるとノートやペンの間から小さな蛇が何匹も這いだした。這いだして私の腕から首をのぼり耳の中に入ってくる。入られて、飛び上がった。痛くはないのだが、外耳道に入り込んだ途端に蛇たちは液体に変わってそのまま奥に流れこむ。冷たい。まだ入り込んでいない蛇を阻止しようとして首を強く左右に振った。振ると、耳の奥で水に変わった蛇が粘稠性《ねんちゆうせい》を増しながら内耳に向かう。ねばねばとした水が三半規管のあたりを満たす。耳小骨を取り巻く。耳が蛇でいっぱいになり何も聞こえなくなるが、耳の中を粘りながら落ちていく蛇の微かな音だけはいつまでもいつまでも鳴り響く。蛇水は内耳の神経を撫で、その神経への刺激があたまに伝わっていった。あたまの中が蛇に満たされ、蛇のイメージが遠心的に体の各部へ伝わる。私の指先もくちびるもまぶたもてのひらも足のうらもくるぶしもふくらはぎも柔らかな腹も張った背中も毛根という毛根もすべての外気に接するところが蛇を感じて粟立つ。粟立ちおぞけだつその瞬間が終わると、蛇の気配はいったんなくなり、私は解放される。しかし五分もたてば、間歇的に襲いくるマラリアの発熱のように、蛇の感触が私の表皮を襲う。難儀である。  難儀な体を動かして卓に向かう。こんなになっても食欲はじゅうぶんにあり、私は女の用意した食事を口にする。ほうれんそうのごまよごし。昆布と細切り人参のあえもの。さわらの西京漬け。えびいも。白胡麻のかかるしらす飯。食っている間も口の粘膜は蛇になったり元に戻ったり、忙しいことこの上ない。  蛇になどなるまいと念じながら、蛇の用意したものを余さず丹念に噛んでのみこむ。咀嚼しのみくだしふたたび咀嚼しのみくだし、皿を舐め夜の中で鳴くすべてのものの声に耳を澄ませ、横たわり間歇的にくる蛇をやり過ごし、私は蛇からもっとも遠い地平をめざす。小さく長く細く、あらゆる隙間を探して遠くへ遠くへ私の感触はのびていく。のびてはいくのだが、それらすべてのぶぶんに蛇はまんべんなく含まれ散らされている。まったく難儀である。  ヒワ子ちゃん蛇はいいわよ、蛇の世界は暖かいわよ。声が世界中の空から降り注ぎ、私は降り注いだものでびしょ濡れになる。二段目の引出しにはきれいな色をした中くらいの蛇がぎっしりと詰め込まれ、あわてて引出しをしめると三番目の引出しが自然に押し出され、中には巨大な蛇がとぐろを巻く。蛇らは横たわる私の体を乗り越え部屋じゅうを這いまわり、飽きるとまた私の体にのぼり体の上で塔をつくったり筏を組んだりパズルのように嵌まりあったりする。  ヒワ子ちゃーん、ヒワ子ちゃーん、いつまで寝てるの。母の声が聞こえ、私は急いで起き上がろうとするが、それが蛇の罠であるかもしれないと思いつくともう二度と起き上がれない。蛇になぞなってはいけませんよ、ヒワ子ちゃんはヒワ子ちゃんなんですからね。さらに母の声が言い、すると反対に私は元気を失ってそれならばすぐに蛇になってやれという気になる。そうよあたしはヒワ子ちゃんのお母さんだって最初から言ってるでしょ、お母さんは蛇なんだからヒワ子ちゃんが蛇なのは道理よ。蛇の声が言い、蛇と母の言い争いが始まる。蛇も母も巨大化しながら果てしなく言い争い、蛇は部屋の中の子蛇やら巻き蛇やらを投げつけては母を縮こまらせ、母は母で慣用句やらおまじないやらを投げつけては蛇をひるませる。  何がなんだかわからぬようになって、私の体はそれでも間歇的に蛇に変化することをやめず、その感覚は次第に違和感のないものになっていき、ならばいつかきっと私のすべては蛇に変わってしまうのだろうかと涙が流れるような気分の悪さと気分のよさを半々に味わいながら、夜は更けていく。 「サナダさん、ちょっと参ってない、このごろ」コスガさんがコーヒー豆をひきながら、言った。ニシ子さんが寝込んでからはコスガさんが朝のコーヒーをいれるようになっていた。  私は毎夜襲いくる蛇の気配で睡眠不足がはなはだしい。いっそのこと蛇のもとに下ろうかと思うこともしばしばだが、私の奥にある固いものがどうしても私を蛇に同化させてくれない。 「ニシ子さんはいかがですか」  コーヒーをすすりながら聞くと、コスガさんは目をしょぼつかせた。 「それがね、思ったよりも回復が早いよ」  コスガさんの色はまだまだ薄い。ニシ子さんは這うようにして布団から出て、赤ん坊が歩くことを覚えるようにつかまり立ちから伝い歩きを経て、今ではもうゆっくりと家の中を歩きまわっているという。 「蛇はもう来ませんか」 「今のところはね」 「ニシ子さんは蛇がいなくても平気なんですか」 「それほど気にしてないみたい」  コスガさんは憮然としている。私のところの蛇は増えたり減ったりしながら毎晩うるさくつきまとってきていた。ニシ子さんは蛇の呪縛からのがれたのだろうか。もう蛇の世界にきっぱりと見切りをつけることができたのだろうか。  久しぶりに甲府の願信寺に納品に行くことになっていた。コスガさんは朝からあくびばかりしている。寝不足ですか、と聞くと、そうだと答える。道中が心配なのでサナダさんも来るか。そうコスガさんが言うので、店は閉めて二人で車に乗ることになった。  願信寺につくと住職が待ちかねていて、また因縁話を始めた。コスガさんは珍しく膝を崩してうわの空の様子で頷いている。二人とも眠くて眠くて、住職の話の途中で何回も上体を傾かせては、お互いにつつきあった。  蛇がな。いつの間にか話は蛇になっていて、コスガさんも私もしかし眠くてそのことにはあまり気を留めていなかった。  蛇の女房をもらったもんがいてな。そのもんとは実はわしのことなんじゃが。  そこまで言うと住職はコスガさんと私を見つめた。沈黙が一瞬きて、それからまた住職は話し始めた。  蛇の女房はいい。世話女房だ。家の切り盛りはうまいし計算もできる。夜のことだって絶品だ。癇性のところもないしだいいち無口だ。話を聞くときにじっとこちらを見つめる目が大きくて白目が澄んでいる。依怙地になるところがないでもないが、人間の女のように感情ずくで依怙地になるのではない。からだが元々依怙地にできているだけのことだ。依怙地なだけあって約束は必ず守る。子供は産めないが卵は産む。産んだ卵は蛇にしかならないが、蛇がそれでかまわんのならわしに文句はない。がんらい子供は好きではないからの。  そこまで言って、住職はぱんぱんと手を叩いた。しばらくすると大黒さんがこの前のときと同じように蕎麦を持ってあらわれた。髪を低い髷に結って、黒っぽい着物に割烹着をつけている。  お蕎麦召し上がれ。並べ終わると大黒さんは言い、厨《くりや》に下がらずに一緒に座った。  わしはもうすっかり蛇になじんだが、ここの二人はなかなかなじめんらしい。住職はそう大黒さんに向かって言った。大黒さんは、目を大きく見開いて住職を見返す。なるほど白目が青く澄んで目ぜんたいが潤んでいる。引き込まれる目である。  あの。大黒さんが低いかすれた声で言った。コスガさんは茫然と大黒さんを眺めている。  導師さま。蛇にもいろいろいるんですよ。大黒さんはコスガさんの方も私の方も微塵も窺わずに、ただ住職だけに向かって言う。お二人のところに来た蛇がどんなものだか、その蛇に会ってみなくてはわかりっこありませんわ。  大黒さんが言ったとたんに、部屋の中に並べられていた陶器や古い道具類がかたかたと音をたてた。誰もものを言わない。ひときわ大きく揺れていた金具のついた中箪笥が揺れ止むと、大黒さんは立ち上がって電気をつけた。電気をつけてみると外がずいぶん暗くなっているのがわかった。まだ午後も早いというのに黒い雲が空を覆い、夜に近い時間のような様子になっていた。  まだ誰もものを言わない。中箪笥の引出しがすっと動き、中からたくさんの蛇が這い出た。大黒さんの方に向かってどの蛇もなめらかに這っていく。大黒さんはいちいち蛇をんではふところに入れた。生暖かい風が寺のまわりを吹いている。すべての蛇をふところに収めると、大黒さんはまずコスガさんのところまですっすと歩いていって、コスガさんに巻きついてからコスガさんの額をひと舐めした。次に私のところに来て同じようにした。  どうですか。こういう蛇はどうですか。大黒さんはかすれた声で言い、住職は満足そうに見守っていた。  どうですかと言われても。コスガさんは顔を紅潮させてしどろもどろに答える。  お気に召しませんか。  気に入るも気に入らないも。こういうことにはなじまないたちなんですよ。コスガさんは汗をびっしょりかきながらようやく答える。  ではあなたは。あなたの蛇とわたしは違いますでしょうか。大黒さんはその大きな目で私を凝視する。違うのだろうか。蛇なんかにもともと興味はなかった。今だってたいしてない。ただ向こうからやってくる。やってきては蛇の世界に来い来いと誘う。蛇の世界なぞには行きたくない。いくら行きたくないと断っても、蛇は後から後からやってきて誘う。そのうちにくらりと裏返って蛇の世界に行きたくなってしまうのだろうか。私の部屋にいる女はここの大黒さんよりももっと獰猛なもののようだ。女に巻きつかれても大黒さんに巻きつかれたときのような落ちついた気分にはならない。しかし女の中には私と同質のものがある。女に巻きつかれたときのぴりぴりした気分の中にとてつもなく心地よいものがある。  あなたは。もう一度大黒さんに問われ、ゆっくりと首を横に振った。住職と大黒さんは顔をあわせ、そうしてから大黒さんは次第に薄く引き延ばされたようになってゆき、最後には蛇に変わった。蛇は住職の膝をのぼり、背中を這い、首を三重に巻いた。巻きつかせたまま、住職は新たな因縁話を語りはじめるのであった。  二度と会わないかもしれないと思っていたニシ子さんが、ふたたびカナカナ堂にあらわれた。 「サナダさん、数珠の作り方を教えましょうか。サナダさんあんがい筋がいいかもしれないわよ」などといやに張り切ったことを言う。前のようにてきぱきと口数少なく店をきりまわし、数珠もどんどん作る。一時途絶えていた注文もニシ子さんが戻ったとたん集まるようになり、それにつれてコスガさんの色も濃くなってきた。  晴れた日が続き、私の部屋の蛇はまた女に戻った。女に戻れば、ただの女なのである。多少蛇らしさはあるが人間らしさの方が勝つ。冬が近いので編み物をしたり布団を干したりする。余った時間は散歩をして過ごしているらしい。 「ニシ子さん、蛇はもういいんですか」コーヒーをいれるニシ子さんに向かって訊ねたことがある。ニシ子さんはしばらく考えてから、 「よくないわ。忘れられるはずがないでしょう」と答えた。 「そうですか」 「また蛇が来たらこんどこそあたしは蛇の世界にいっちゃうかもしれないわよ」 「ほんとですか」 「そうねえ。来るのは違う蛇だろうからそのときはまたそのときかもしれないわね」  蛇の話はそれきりで終わりニシ子さんは私に数珠の手ほどきを始めた。  願信寺から帰ってきてから頭の中で何かが鳴っているような気分がずっと続いていた。何かは音ではなく、かたまりのようなものだった。かたまりが振動して、かすかな気配をふりまくのである。ふりまかれる気配は最初何の感慨も引き起こさなかったが、日がたつにつれてせっつくようなものとなっていた。せっつきが強くなるに従ってかたまりは固く大きくなった。  部屋の女はときおりカナカナ堂まで訪ねてきた。カナカナ堂のきれいに磨き上げられた入口のガラスに顔をぺったりとつけて、中を覗くのである。最初に気づくのはいつもコスガさんであるが、コスガさんは知らぬ様子をする。コスガさんが気づいてじきにニシ子さんが顔を上げる。ニシ子さんは女をしげしげと見るのである。女とニシ子さんはしばらくしんみりと見つめ合う。ニシ子さんの目が細くなり女の目は反対に大きく広げられる。そのさまを見ていると、私の中のかたまりはますます振動するのである。 「サナダさん、来てるわよ」とニシ子さんは言う。 「入ってもらったら」  私は答えずに、首を横に振る。数珠の珠を通すための糸を不器用に縒《よ》りながら、外の女を見るまいとする。見るまいとするとかたまりはますます振動する。ガラスに押しつけられた女の鼻やまぶたや額が伸び広がって、そのぶぶんだけ蛇のようになっている。不思議に女がいるときには客が来なかった。  ほうっておくと女はいなくなる。  女が去った後には何かわからぬ細かな殻のようなものがいくつも落ちていて、ニシ子さんはいちいち丁寧にそれらを掃いた。ニシ子さんに殻を掃かせながら、コスガさんも私も店の中を右往左往した。師走がじきに来ようとしていた。 「ヒワ子ちゃん。もう待てない」女が言ったのである。言うなり女は私の足を持ち私をころばせた。ころばせたうえで馬乗りになり、首を締めにかかった。 「首なんか締めたら死んでしまう」叫ぶと、女はへんな顔をしながら、 「だって待てない」と叫び返した。  ぐいぐいと首が締められ、私の表面は紅潮する。部屋じゅうに電気が満ちて、びりびりと震えている。足をばたつかせながら女の隙を窺った。女はじっくりと力強く締めてくる。のがれようとしてもかなわない。 「ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃん」女は名前ばかりを言い立てながらますます締めてくる。横目で倒れている床を眺めると、絨毯の毛が横になびいてその間から湯気があがっていた。部屋ぜんたいが沸き立っているのだった。  開け放った窓からいろいろなものが飛び込んできて、馬乗りになっている女に当たる。そのたびに女は髪をふりたてて、当たりにくる金属のかけらやつぶれた果物や鳥の残骸をけちらした。五色の紙吹雪が舞い込んできたときに、女が隙を見せた。すかさず首に回されていた女の指の間に自分の指を差し込み、てこの原理で一本ずつを順番にはずしていった。指がすべて離れると、女はぴょんと飛び上がって机の上に乗った。 「どうして待てないの」大声で聞くと、女は眉を苦しげに寄せながら、 「だってヒワ子ちゃんはいつまでたっても知らないふりばかり」と言い、その言葉がふたたび女を優勢にする。女はひるんだ私の頭に飛び乗り、足の裏で頭頂をぐるぐる撫でる。乱暴な撫で方なのにうっとりとさせる。そのまま首をまた締められるかと覚悟していると女はそうせずにますます撫でる。  何百年もの間女とこういう争いを繰り返しているような心もちになっていた。女が攻撃し、私が受ける。  もうその繰り返しには飽き飽きしていた。私の中でこの前から固く大きくなっている振動が、私の輪郭を突き崩そうとしていた。  えい、と気合を入れて女に殴りかかった。こぶしは女の中に柔らかく入り、そのまま吸い込まれた。どこまで殴っても限りがない。深くこぶしが入っていくにつれて、またうっとりする感じがやってきた。目を閉じて女の胸に倒れかかりたくなってしまう。ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃんと名前を呼ばれたくなってしまう。蛇に変化して腰を巻かれたくなってしまう。  目を大きく開けてもう一度こぶしを引き、今度はてのひらで女の顔を打とうとした。しかし顔でも同じことだった。打たれても打たれても女の顔は白く薄く、歪みに向かうことはないのだった。 「ヒワ子ちゃん、どうして蛇の世界に来ないの」女がかきくどく。  どうしていいのかわからなかった。わからないわからないと頭の中で言った。しかしほんとうはわかっているのだった。わかっていて、それでも痺れたようになっている。ここで屈してはいけないと思った。思うがかんたんに屈する。屈したいから屈するのだった。屈したいなら屈すればいいではないか、どうしてわざわざ望まないことをする必要があるの。そう言っているのは自分か女か不明になる。不明だ不明だと考えているうちに何百年ものこの争いが突然ばかばかしくなって、いちじに結末をつけようという気になった。 「蛇の世界なんてないのよ」できるだけはっきりとした声で言った。  遂に言ったと思った。今まで不明にしてきたことを不明でなくした。わからないふりをしていたことをわかった。ただし何百年も争ってきたわりにはいやに単純なことではあった。なぜ今までこんな単純なことを言えなかったのか、またわからなくなった。わからなくなって、ふたたび単純なことではなくなってしまった。 「ほんとかしら」女が笑いながら言った。 「そんなかんたんなことかしら」首を締めにかかる。  たたん、たたん、という音がしている。部屋を満たしている電気のようなものが青く放電しはじめて、そのうちに天井からしたたりが始まった。したたりは量を増し、部屋が水浸しになる。女と私はあしくびから膝へ、膝から腰へと増す水の中で争いを続ける。すっかり部屋が水の中に沈んでもまだ争いは終わらず、部屋のあるアパートぜんたいが水に飲まれて流れはじめミドリ公園をつっきる濁流に乗りながらカナカナ堂に向かっても、女と私は譲り合わない。 「こちらに来ればわかるのよ。来ないで何を言うの」 「行くも行かないも、そんな世界はないんだから」 「ヒワ子ちゃん、だってあたしはあなたのお母さんなのよ」 「話にならないわ」 「だから話を聞いてよ」 「いやよ」 「聞かなければわからないのと同じよ」 「わかりたくないわ」 「ほらまた知らないふり」  叫びながら、部屋ごと流されていく。もう夜が明けていて、カナカナ堂はシャッターを開けていた。コスガさんは店の前を掃いていた。ニシ子さんは棒台に向かい静かに数珠を作っている。カナカナ堂の前を花や踊り子をぎっしり詰め込んだ祭りの山車がにぎにぎしくひかれ、山車からは信用金庫の歌が大音声で流れていた。だいじだいじぃ〜、だいじなものはぁ〜、その繰り返しが円環のようにカナカナ堂を取り巻き、それでもコスガさんとニシ子さんはカナカナ堂の中で安穏な顔をして何やら、している。サナダさん、練習は大事だよ。コスガさんが流されていく私に向かってウインクしながら言う。練習なんかじゃないんです、練習してる間に掬われちゃいます、そう言い返すが、コスガさんは額をてのひらで撫であげ、両切りのピースをくわえていつものように平然としている。 「ヒワ子ちゃん、いいかげんに目をさましなさい」女が言う。 「目をさますのはあなたでしょう」 「そんなこと言って」  女はぐいぐい首を締める。気持ちいいんだか苦しいんだか、女は相変わらずへんな顔だ。それならばと思って女の首を締め返す。  青く放電するものであたりは目も開けていられぬほど明るく輝き、その中でわたしと女は互いに同じくらいの力で首を激しく締めあう。部屋はものすごい速さで流されてゆく。  消 え る  このごろずいぶんよく消える。  いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから二週間になる。  消えている間どうしているかというと、しかとは判らぬがついそこらで動き回っているらしいことは、気配から感じられる。風がないのに次の間への扉ががたがたいったり、箸や茶碗がいつの間にか汚れていたり、朝起きてみると違い棚に積もっていた埃が綺麗にぬぐわれていたりするのが、兄なのであろう。  消えるのはありふれたことなのでさして心配はしないのだが、兄には差し迫った結婚話があり、そのことが難儀なのではあった。  身内で最初に消えたとされているのは曾祖母で、これは神隠しにあったと言われたまま一年以上戻ってこなかった。その一年の間曾祖母がどこにいたのか、曾祖母が語ったといわれることを祖母が書き留めたものを読むと「居ないと云ふ譯ではなくすぐ傍に居るのですがどのやうに聲をあげても聞こえない樣子でございます叩けばふり向く撫でれば驚くそれなのに誰にも見えないのがなんともをかしなことなのでございました」とあり、つまりは消えている間消えていた本人にはすべてのことが見通せているようなのであった。  曾祖母についてはこれ以上の手掛かりはなく、祖母の書き留めたものも大部分が散逸したり消耗したり、結局一年少しして帰ってきたことに安心して誰も曾祖母についてそれより先を詮索しなかったのだろうか。詮索しなかったというのもおかしな話で、一年もいなかったらいくら昔のことだといっても大騒ぎになっただろうに、それ以来頻々と身内が消えはじめたことも関係しているのか、もう誰も消えるということのありかたを深刻に追おうとはしなかったようである。兄が消えたときも家族はさして動揺したようには見えなかった。  いったいにこの家族は安穏を好むので、起こったことをすぐさま認めてしまいがちなのは自分のことをかんがみてもわかりはする。夜明けがたの茫とした時間や就寝前の頭のうすぐらい時間に兄を案じることも多かったが、それ以上どうしようかという手だては浮かんでこないのであった。  兄の許嫁はヒロ子さんという人で、隣の団地の最上階に住んでいる家族の長女である。隣の「ヒカリ団地」は高層の巨大団地で、循環バスが幾通りも団地内を巡っており、バスを降りて棟と棟の間を歩くと、常に吹いている強風にあおられて持っている手荷物やら帽子やらが見る間に高く遠く飛ばされて、二度と戻ってくることはない。循環バスの始発駅のバス停には『荷物はリュックサックに入れてください、帽子マフライヤリングその他装飾品はつけないこと、おこさまは脇にしっかりと抱えること、当団地自治会は事故にかんしてはいっさいの補償はいたしませんご了承ください』と大書きしてある。兄は父と母に連れられて循環バスに乗り、ヒロ子さんの住む最上階2907号室に見合いに行ったのだ。見合いの段取りはすべて電話で行われ、その電話を仲介したのは私の家族の月下氷人を何回もつとめた笹島のテンさんという老人で、テンさんは曾祖母の生きていたのよりももっと前から活躍していたそうである。最近は子供も少ないので月下氷人としての手腕を発揮する機会は少なくなったが、それでも幾つもの家族の取り持ちを行ってあんがい忙しく飛びまわっているらしい。テンさんには家族の誰も会ったことがない。常に電話で事を済ませている。曾祖母の時代にはテンさんも家族の住む家にやって来て膝を突き合わせたり茶を飲んだりして縁談話を進めていたのだろうか、しかし電話でそんな昔の立ち入ったことを聞けるわけはないので、テンさんの今の姿だけではなく以前の姿に関しても、家族は誰も知らないのである。  テンさんに指定された日にちに昆布とするめと釣り書きを持って、父と母と兄はヒロ子さんを訪ねた。ヒロ子さんの家ではヒロ子さんの祖父と父と妹二人が横一列に並んで玄関に立ち、父と母と兄を迎えた。ヒロ子さんはその列の後ろに隠されて長く込み入った見合いの挨拶が終わるまで顔姿を見ることはできなかった。そのような決まりは祖母の時代にはなかった様子で、それどころか父母の時代にも結婚についての決まりなど微塵もなかったようなのだが、テンさんに促されたせいか、それともそういうふうに知らず知らずこのあたりの風習が動いてしまったせいか、ともかく私の家族もヒロ子さんの家族もテンさんに教えられたのと寸分も違わぬ決まりに従って見合いの儀を行ったのであった。  挨拶が済むとヒロ子さんは列の前に進み出て、そのまま兄と父と母を迎えるべく昆布とするめと釣り書きを手いっぱいに受け取り、家の中に招じ入れた。昆布はすぐさま違い棚に飾られするめは冷凍庫に保存され釣り書きは額に入れて仏壇の上の壁に掲げられた。父と母と兄は仏壇に向かって般若心経を唱え、ヒロ子さんの家族は返答がわりに五分間の沈黙を示した。そうやって婚約は整い、半年後の結婚が決まったのである。  兄が消えたことはヒロ子さんには伝えられていない。ヒロ子さんと兄はいつも電話で睦言を言い合っていたので、次の兄が今は代わりにヒロ子さんと睦言を言い合うのである。兄の睦言は狭い家の中の中央にある電話で語られておりその内容は家族には周知のことだった。次の兄が兄そっくりの声でヒロ子さんに睦言を語るようになって二週間、ヒロ子さんは兄が消えたことに気づいた兆候などまったく見せない。家族の誰もヒロ子さんに兄が消えたことを教えようということを思いつかないのも無理はない。  先日テンさんからまた電話があり、そろそろヒロ子さんの家族がここを訪れる時期であると言われて、家族は少し動揺した。それでもヒロ子さんには兄が消えたことを誰も教えないし、テンさんにだって相談しようとはしない。ヒロ子さんとその父祖父がここに来るのは一週間後ということに決まった。  兄の前にはゴシキが消えていた。ゴシキは本式には五色という漢字を当てる、曾祖母よりももっと前の先祖といっても差し支えない以前の血筋から伝わった壺である。大きな壺で、中に先祖の霊が宿っているといわれていた。宿っていると言いだしたのは祖父で、誰も最初はそんなことを信じなかったのであるが、長く言っているうちに先祖の霊が宿っていることは事実と同じになってしまった。ゴシキは客間の半分ほどの面積を占め、幼いころは上の兄次の兄私の三人で手をいっぱいに広げてつないでもぐるりを囲むことができなかったほどの、大きな壺なのである。名前の通り五つの色で彩色されていて、形は大陸ふうであった。ゴシキは真夜中に喋ると毎夜母から聞かされていた上の兄がまず最初にゴシキの声を聞き、その声は「クマノリクマノリ」というものだった。次の兄がゴシキの声を聞いたのは三年後で、それまでに上の兄は母が自分にしたように毎夜次の兄に向かって「ゴシキは喋る」と言いつづけた、しかし次の兄が聞いた声は「クマノリ」ではなく「クマナラ」だった。さらに四年後私がゴシキの声を「クナニラ」と聞きとったとき母は初めて私たち三人以外にゴシキの声を聞いた者はいないということを明らかにした。母も父もその前の家族たちの誰も、ゴシキの声を聞いた者はなかったのである。先祖の霊が宿りさらに喋るようになったゴシキはもはや只のゴシキではなくゴシキ様と呼ばれるべきものだったが、前からの習慣で家族はゴシキと呼びつづけた。  ゴシキを磨くのが家長の仕事で、父の前には祖父が、祖父の前には曾祖父がゴシキを磨いていた。毎日乾拭きをし、月に一回は薬剤を使って念入りに磨きあげる。曾祖父の時代にはまだまだ磨かれかたは雑駁で、ときによると数ヵ月もの間磨かれずに放置されたりもしたらしいのだが、代が下るに従ってゴシキの磨かれかたは複雑になっていった。父の後には上の兄がゴシキを磨くことになるはずだった。  ゴシキが消えたのは薬剤を使った月一度の磨き日の翌日で、朝いちばんに起きる次の兄があげた叫び声で家族皆が起き上がり、吊るされた寝床からつぎつぎに走りでた。次の兄は客間に仁王立ちになってゴシキのあった場所を指し示しながら叫んでいた。ゴシキが、ゴシキが、と次の兄はサイレンのような声をたて、上の兄と父がゴシキのあった場所をさぐった。さぐってもゴシキの輪郭や気配は感じられず、しばらく家族は部屋中を探したが、三十分探しても見つからなかったのであきらめた。探している間も次の兄はゴシキがゴシキがと叫びつづけ、終いには母が次の兄を棚の奥にしまって黙らせた。上の兄が消えたときには、誰も叫ばず探索も行われなかった。  ゴシキは消えてからは気配をすっかり無くしたが、兄二人と私はゴシキの声を聞くことができた。真夜中、小便に起きたときなどに天井から「クナニラクナニラ」とはっきり聞こえることもあったし、水を汲みに杉並木の道を下っていくときに杉の梢から「クナニラクナニラ」と降ってくることもあった。ゴシキの声が聞こえた日には、月が満ちたり雷が鳴ったり小さな蟻が外壁いっぱいに群れたり、いつもとほんの少し違うことが起こるのが常だった。家族はゴシキの名を柱に彫り、柱に向かって毎朝柏手を打つようになった。  結婚後ヒロ子さんはこの家族の中に入ってくることになっていた。そうすると家族はヒロ子さんを加えて全部で六人になってしまうので、書式上結婚後三ヵ月以内に家族から一人が出ていかなければならないのである。反対にヒロ子さんの家族は四人に減るので、どこからか一人を迎え入れなければならない。家族間で人を術もなくそのまま交換することは禁忌になっていた。ヒロ子さんが来るかわりに次の兄がヒロ子さんの妹と結婚するというようなやりかたは、だから駄目なのである。  家族の人数が五人と決められたのがいつかはさだかではないが、母の弟が結婚するころにはすでにそのような風習ができていたらしく、母は弟の結婚のせいで元々の母の家族を出た。出ていった先は三町向こうの知らぬ家族だったそうで、そこに五年間居た末、テンさんの口利きで父と結婚したという。ただし母のように正直に移動を行う例は少なく、家族五人であると偽って申請して紙の上だけで辻褄を合わせていればいいというのが今の世の中の不文律であるから、ヒロ子さんがこの家族に入ってきてもおそらく誰も出ていかないだろうし、ヒロ子さんの家にも実際に新しい人間がやってくることはまず無いだろう。  家族の人数が五人と決められてからその決まりが形骸化するまでにたいした時間はかからなかったらしい。この家族やヒロ子さんの家族のように実際に五人で家族がつくられていることは少ないといってもいい。十四人くらいが一つの家に住んでいる場合もあれば、一人で家に住んでいる場合もある。家によっては人間のほかに管狐《くだぎつね》がいる。昔の祈祷師が竹の筒に入れて運んだといわれる通力を持った想像上の狐である。管狐を飼うのが二十年ほど前から流行りだした、と母はよく話してくれる。二十年前といえばちょうどお父さんと結婚したばかりだったからますます飼いたい気持ちがつのった、母はそう言ってため息をつく。ヒロ子さんの家には管狐が三匹もいて、父や母がヒロ子さんとの縁談に乗り気なのはそのせいかもしれない。二十年前には管狐売ります、という掲示があちらこちらに出され、そのどれもが郵送着払いによる売買だった。注文をすると管狐が箱に入って届けられた、その当時家族の隣にあった家でも管狐を注文したらしく、ある日母が買い物から帰って玄関の鍵を開けようとしていると隣の奥さんがやってきて管狐の話を滔々とする。管狐はあんなに大きいのに、鳴き声もたてないし、筒にしまえば高さ十センチ直径二センチの中に納まってしまう。触れば光を発するし放置しておけば遊びまわっている。管狐が来てからは家族が安泰になったように思う。夫は蔬菜の仕事で大きな企画をたてて採用されたし子供は団地内の図画工作展で金賞を貰った。管狐はいい匂いがする。そんなことを埒《らち》もなく自慢して去った。ずいぶんお父さんに管狐を飼ってくれるよう頼んだのだけれど、駄目だった、母は何度でも未練がましく言い、しかし兄たちも私もあまり管狐には興味がなかった。母も父も兄たちも私も、家族の誰も実際の管狐を見た者はない。ヒロ子さんの家を父と母と兄が訪ねたときも、三匹の管狐は見せてくれなかったらしい。いい匂いもちっともしなかったらしい。  五人の家族の平均的な構成は、父母と子供三人である。子供三人の代わりに祖母一人子供二人という場合もある。祖母祖父子供一人という場合もある。子供四人に母という場合もある。いずれの場合も形骸化した五人であり、書類の上の五人であるから、前にも言ったように実際には十四人いたり一人しかいなかったりする。  この家族の何軒かおいて隣に子供五人という家族があり、その家族は書類の上だけでなく実際に子供五人なのだった。杓子定規に家族五人という決まりを守った結果そうなったらしい。子供は小学校一年から中学二年までの男二人と女三人である。子供ばかりなので騒がしい。夜遅くまでぽんぽん何かを鳴らしたり、大きな二輪車をどこからか盗んできて乗りまわしたりする。近所でも評判になって団地の民生委員が何回も訪れては諭したりすかしたりしたが、効果はなかった。里親をつけるという案も出されたが、里親になろうという人間があらわれなかった。いつまでも騒がしいので、ついに団地委員長がじきじきに訪問した。委員長と助役が二人でその家族の家に入ると、小学生二人が走りでて、委員長と助役に粉のようなものを投げつけたらしい。  それからがへんな話で、小学生たちは伸びたり縮んだりしながら天井といわず床下といわず、めくら滅法走りまわったのである。あんまり走りかたが速いので、委員長も助役も目をまわした。そのうちに小学生だけでなく中学生も飛んででて、家じゅうに風を起こして最後には竜巻になった。竜巻は家具をなぎはらいながら部屋から部屋へと吹き荒れ、委員長と助役は命からがら逃げだした。子供たちは大声で笑い、その笑いは団地に響きわたり工場の煙突や給水塔を震わせた。団地の多くの家族は恐ろしさに家の中でなりをひそめ、翌朝まで一歩も家から出なかった。翌朝見るとどの家の前にも白い粉が一面に撒かれていて、しかしそれ以来その子供たちばかり五人の家族の家はもぬけの殻になった。子供五人がどこに行ってしまったのかは、不明である。竜巻に乗って遠方まで飛んだと言う者もあったし、真夜中その家族の家からときおり大きな笑い声が聞こえるという者もあるし、しかしそれ以来誰もその家族を訪ねようとはしないのであった。  消えた上の兄が出ることがときどきある。  つい最近は東側のベランダに出た。布団を干そうとしていると布団の上に跨がるようにしてあらわれた。顔が白く生気がなかった。  もっと甘いものが食べたい、そう兄は言い、すぐにまた消えた。それからは違い棚に饅頭や大福を欠かさず置くようになった。上の兄は酒好きで、酒好きで甘いものを好む人間もいるが、兄はいっさい甘いものを口にしなかった。その兄が毎日のように餡やぎゅうひを食べるようになるのだから、消えると人間は変わるものである。ヒロ子さんのことは気にならないのかと問うと、布団に跨がったまま首を横に振り、それ以上何も言わなかった。ヒロ子さんは次の兄と毎夜睦言を交わして上機嫌なのだから、嫉妬していたのかもしれない。但し消えた人間が嫉妬や歓喜といった感情を抱くものなのかは、見当がつかない。  ヒロ子さんが家族に加わるので、父は天井から新しい寝床を吊った。真新しい寝床の布団を母は毎日のようにベランダに干し、その上に兄は跨がったのだから、やはりヒロ子さんのことが気にかかっていたのかもしれない。兄の気配は濃くなったり薄くなったりした。家族の中でいちばん兄の気配に敏感なのは私で、寝ているときなど、胸の上に兄が乗って苦しさのあまり目が覚めることも多かった。そういうとき兄に向かって「どんな」と訊ねると、兄は「淋しい」と答えた。「どんなふうに淋しい」と聞くと「からだがないので淋しい。家族の傍にいるのに家族ではなくなるのが淋しい」と答えた。「消えても家族なんだから」と言うと「消えたらもう家族じゃなくなる」などと言う。「家族じゃないのってどういうの」さらに聞くと「自分ではなくなること」と答え、咳き込むような音と共にすっといなくなる。  兄に乗られると気が晴れない。半日くらい、屈した気分になってしまう。  家族の決まりは家族ごとに違っていて、たとえばヒロ子さんの家族は春の休日に芹や蓬《よもぎ》を摘む決まりになっていた。摘んだ芹や蓬は軒下に干して香りをたたせる。干すために吊るされた芹や蓬のために光は家の中まで通らず、ヒロ子さんの家の中はおぐらくなる。おぐらい家の中でヒロ子さんの家族は正座し、刻々と強くたってゆく芹や蓬の香りを吸い込む。そのうちにまずヒロ子さんの祖父が酔ったようになり座敷を千鳥足でまわり始める。つぎつぎに父ヒロ子さん妹たちが千鳥足になり、ヒロ子さんの家族は何時間もの間まわりつづけるのだという。一年に一回のこの決まりを破ったのはヒロ子さんのお母さんが亡くなった年のことで、葬式と春の休日がちょうど重なってしまったのであった。お祖父さんは葬式を延期して決まりを守らねばならぬと主張したが、お父さんの意思が固く結局葬式が行われた。この話を聞いたのはまだ上の兄が消える前で、いつものように家族の真ん中にある電話を通じてヒロ子さんから伝え聞いたわけであるが、そのときにはこの家族じゅうが聞き耳をたててヒロ子さんの話の成り行きに固唾を飲んだ。決まりを守らなかったその年、ヒロ子さんの家族にはたいそう不吉なことがつぎつぎに起こったそうであるが、その不吉なことの詳細をヒロ子さんはけして喋ろうとしなかった。家族の秘密なのだろう。上の兄が消えたことは不吉なことではないが、父も母も次の兄もけしてヒロ子さんに喋ろうとしない、それと同じことなのであろう。  この家族の決まりはゆるやかで、三月三日に原から色のついた花を手折ってきて段々に飾り眺めること、九月の夜には家中の電気を消して月をあがめること、この二つくらいである。ヒロ子さんがこの家族の一員になったなら芹や蓬に酔うようなかたくるしい決まりは捨てて、この家族のあやふやな決まりに従ってもらわねばならない、しかし家族ごとに決まりが異なってきたのもこの五十年くらいの間のことで、それ以前は家族によって何かが異なるということは少なかったらしい。いったい五十年より以前の家族はどのようなものだったのか、父や母に聞いてみることもあったが、口をつぐんで多くを語らない。それではとテンさんのような長く生きている人に聞いてみると、何を言うか家族はいつも家族である、それ以上のことはなんにもないよ、そんなふうに頭から言われ、とりつくしまもないのであった。  ヒロ子さんとその父祖父が来る日になった。  闇夜に、柳のようにしなる枝を何本も持って、ヒロ子さんとその父祖父はやってきた。三人は枝をぴしぴしいわせながら玄関の呼び鈴を押し、家族は三人を迎え入れた。このたびは昆布やするめは無く、釣り書きだけをヒロ子さんの祖父がうやうやしくかかげて父に渡した。ヒロ子さんの祖父とこちらの父の口上が終わると一座は息をつき、神棚の間にぞろぞろと移動した。神棚の中におわす八百万《やおよろず》の神々に向かって父が祈りを捧げると、ヒロ子さんとその父祖父はぎこちなく祈りに唱和した。すべての儀式が終わっても上の兄は現れず、予想はしていたものの、具合が悪いことはなはだしかった。  ヒロ子さんの父と私の父が財務についてのあれとこれを語った。談義が終わるとそれ以上の話の種もなく、大人たちは黙ってしまった。次の兄がヒロ子さんの袖を引き部屋に誘った。ヒロ子さんは大人たちに目配せをしてから次の兄に引かれて部屋に入っていった。こっそりと神棚の間を抜け出して次の兄とヒロ子さんの入っていった部屋の壁に耳をつけると、二人の睦言が聞こえた。睦言は高く低くよどみなくつづいた。扉の隙間から覗くと、次の兄とヒロ子さんは部屋の東の隅と西の隅に別れて睦言を言い合っていた。顔をあわせず、お互いの声だけを聞きあって睦言を言っているのであった。ヒロ子さんは扉の陰にいる私に気がついて手招きし、私はヒロ子さんの足元に寝そべった。寝そべってみると昔こんなふうに誰かの横に寝そべった記憶があって、その記憶の中では私は喉や腹やてのひらをゆっくりと撫でられていた。  撫でていたのは上の兄で、兄は「ねこまねこま」と言いながらしきりに私を撫でる、撫でられて私はぐるぐるぐるぐる喉を鳴らし兄の言う「ねこま」というものに近いかたちになっていくのだった。ねこまはあしやうでや背中いちめんに毛を生やし髭を持った小さないきもので、家の基礎になっている石や柱の間に混じって住んでいる、石や柱かと思い込んでいるとそのいちぶが石や柱とは僅かに違う色をしているのだ、あっと思って目を凝らすと違う色のぶぶんがかたちを取りはじめて次第にねこまとなってゆく。すっかりねこまのかたちとなると石や柱から抜け出し家の中を歩く、音をさせずに歩くのでたいがいの人は気づかないのだが、兄は耳さとくねこまの足音を聞きつけ「ねこまねこま」と呼ばわる、ねこまは兄の膝にやってきてくるりと丸まり寝ているような起きているような様子になるのである。  私はねこまを見たことがないしかし、兄にねこまのことを聞かされるので知らず知らずにねこまのかたちをとろうとするのである。ねこまになって兄の膝の上で丸まりそのまま兄に抱かれてしまいたくなる、その兄も今は消えてしまったので私はヒロ子さんの足元に寝そべるのであった。  あたしあなたを死ぬほど愛してます、そうヒロ子さんは背中越しに次の兄に向かって言い、次の兄はぼくだって、ぼくの愛は沼と同じくらい深く瓦礫と同じくらい高い、そう答える。沼? なにいろの沼かしら。暗く濁ったあおみどりの沼だよ。それならばあたしの愛だってその沼に負けないくらい深い。ぼくたちの愛は沼にとけこんで静かに静かに沈んでいくんだろうね。沈んだ先にはなにがあるのかしら。それはね、それはねヒロ子さん、家族だよ。  次の兄とヒロ子さんはそういうような睦言をはてしなく繰り返し、私は淋しくなる。私を撫でてくれる兄は消えてしまって、気配はまだじゅうぶん感じられるが、次の兄とヒロ子さんは上の兄がもうないもののようにふるまっているので、もうすぐ上の兄はほんとうにないものになってしまうかもしれないと思う。兄が言っていた「淋しい」とはこのようなことだったのだろうか、私はねこまになろうとするがねこまを呼び起こす兄の姿が見えないままなので、ちっともうまくねこまになれない。家族の中にいて姿があっても、淋しい。こんなに淋しいと、私だってじきに消えてしまうかもしれない。  テンさんから電話があって上の兄とヒロ子さんの婚約を解消した。かわりに次の兄とヒロ子さんの婚約が整い、儀式は兄のときに済んでいたのでそのまま上の兄に成り代わって次の兄の許にヒロ子さんが輿《こし》入れしてくることになったのである。父も母も上の兄がいたということをすっかり忘れた様子で、次の兄だってそれは同じだった。いつの間にか上の兄が寝ていた吊り床ははずされ、家族は四人になって明け暮れを繰り返した。  季節が変わったので祭りが近づき、祭りの準備で父や母は忙しくなった。団地の中央にある集会室で毎夜祭りについてのあれこれが話し合われた。出店の種類は。揃いの袈裟《けさ》はどんな模様にするか。石を飾るか。虫の始末はどうするか。  この季節には虫が大発生するので団地のひとびとはその始末に追われる。親指くらいの大きさの虫で、かぶと虫を小型にしたような形と色である。ぶんぶん飛びまわって刺す。刺されると銅貨くらいの大きさに皮膚が腫れ、そのうちに水泡となってしまう。水泡になるとなかなか治らないので困る。できるだけ外に出ないようにしてやり過ごすのが虫を避ける最良の方法なのだが、そうもいかない。祭りは団地中央にある公園で夜遅くまで行われる。祭りなのだから屋内で行うわけにはいかない。  今年は父と次の兄が人柱になって虫を呼び寄せることが決まった。体に虫の好きな甘い匂いを塗って、虫を寄せておいてからいっぺんに虫をつかまえる。甘い匂いだけでは虫は来ないので面倒である。人に塗られた甘い匂いでないと、寄せられてこない。  祭りの夜にヒロ子さんが見物に来ることも決まった。結婚前に違う家族の団地に行くことは禁忌なのだが、次の兄が人柱になるので特別に許された。ヒロ子さんは体いっぱいに虫よけの薬を塗ってやってきた。そんなに塗ることもないのだが、父と次の兄という人柱があるのだから、しかしヒロ子さんはこの団地の人間ではないので風習がよくわかっていないのだろう。母がヒロ子さんに軽く注意を与えるとヒロ子さんは恥ずかしそうに顔を赤らめた。これからは気をつけます、結婚するのだから気をつけます、そう言って母に謝った。父と次の兄が下着姿になって甘い匂いを発散させると虫がぶんぶん羽音をたてながら父と兄にたかった。父も兄も直立不動になって顔を苦しそうに歪めている。そのうちに虫で体も顔も見えなくなってしまうと、ヒロ子さんが次の兄に駆け寄りそうになった。あんなになって大丈夫なんですか、そう大声で叫びながら、止める母と団地祭りの役員の手を振り払って駆け寄りたそうにする。父と兄はヒロ子さんの声が聞こえてるんだか聞こえてないんだか、もう虫でいっぱいでそれでも直立不動は崩さない。なぜこんなことしなくちゃならないんですか、みんなで虫に刺されればいいじゃないですか、ヒロ子さんが盛んに叫んでいるが、誰も耳を貸さない。そういうこと言うならあんたが団地の役員になって抜本的な改革をするんだねえ、ヒロ子さんを止めている役員の一人がそう言うと、ヒロ子さんは悲しげな声で、それならばそうします、家族の一員になったならすぐにそうします、と言い、卒倒した。  卒倒するヒロ子さんのまわりを虫がぶんぶん飛んだが、ヒロ子さんのつけている虫よけの薬が強いので、一匹もヒロ子さんにはたからなかった。母と私はヒロ子さんの頭を冷やしてやりながらため息をつきあった。  祭りが終わると父と次の兄が一ヵ月寝込んだ。全身が腫れて水泡になり、それが破れてかさぶたになるまで一ヵ月かかったのである。かさぶたは足といわず手といわず腹といわず瞼といわず耳といわず、とにかく露出している皮膚のあらゆる場所にできた。固くなりぎわが、痒い。父も兄も寝込んでいた一ヵ月の後半にはからだじゅうを掻きつづけた。耳の奥までかさぶたができてしまったので、ヒロ子さんとの電話もままならなかった。どうにかならないのかね、テンさんがときどき電話をしてきては言った。ヒロ子さんは次の兄との睦言が恋しくて、やつれているという。電話線を通じて聞こえるヒロ子さんの声が次第に弱々しいものになっていくのがわかった。兄と話ができなくても、ヒロ子さんはいつも決まった時間に電話をかけてきてはなにくれとなく喋った。母や私が相手をすることになるのだが、最後には必ずヒロ子さんが泣きだしてしまうので、困惑してしまうのだった。こんなに感じやすくてこの家族の人間になれるのだろうか、母と私は心の中で思ったが、口に出して言うことではないので黙っていた。黙っていても、お互いがそう考えていることははっきり知っていた。母も私も、芹や蓬の香りを吸うヒロ子さんの家族の儀式がヒロ子さんの気分を繊細にしてしまっているのではなかろうかと、疑っていた。管狐なんか飼っているからあんななのではないかと、疑っていた。ヒロ子さんが特にしくしくと長く泣いた夜に、兄に向かってヒロ子さんの様子を聞かせると、兄は不思議そうにした。かさぶたでいっぱいの瞼を上に持ち上げて、目を丸くした。どうしてヒロ子さんはそんなふうに泣くのだろうと言いたそうにした。愛しているからじゃないの、私が言うと、兄は、俺だって愛しているとも、結婚するくらいなのだからそりゃあ愛しているとも、そういう顔をしてみせた。でも愛しているからってどうして泣かなきゃならないんだ。さあ。ヒロ子さんは変わった人間なんだろうか。そうじゃないでしょう、そうじゃなくて、ヒロ子さんは違う家族の人なのよ。  兄のかさぶたがすっかり剥がれて電話ができるようになってヒロ子さんに電話すると、ヒロ子さんはさめざめと泣きだした。家族は皆そのヒロ子さんの泣き声に聞き耳をたてた。ヒロ子さんは号泣しながら「愛してるんだわ」と言った。兄は知ったような声で「そんなに俺を愛してるのか」と答えた。ヒロ子さんは「そうよ、そんなに愛してるんだわ」と言ってから、ひときわ大きく泣いて鼻の音をたてた。ヒロ子さんの背後ではヒロ子さんの家族が同じように聞き耳をたてているに違いなかった。兄はしばらく沈黙してから、低い声で「俺の愛は団地でいちばん大きな家の面積よりも広い」と言った。ヒロ子さんの背後からぱちぱちと拍手の音が聞こえた。その拍手の音を聞いて、私たちも拍手を返した。拍手はいつまでも続き、拍手の合間にヒロ子さんの鼻の音がときどき響くのであった。  いよいよ結婚式の日がきた。ヒロ子さんは金の衣装を身につけてヒカリ団地からやってきた。ヒロ子さんの家族も一緒にやってきた。テンさんが電話で指図した通りに、紅白の幔幕を張ったトラックに家具とヒロ子さんを乗せて、ヒロ子さんの家族はしずしずとやってきた。ヒロ子さんの妹と私が付添い娘となりヒロ子さんの祖父が祝詞《のりと》をあげ、結婚式は滞りなく行われた。寿司や肉や果物が出て全員が満腹になると、ヒロ子さんの家族は大きく礼をしてから帰っていった。紅白の幔幕を張ったトラックに乗って帰っていった。  金の衣装をつけたまま、ヒロ子さんはぼうぜんと家族の中に座っていた。次の兄はヒロ子さんの衣装が珍しくて、しきりに袖を引っ張ったり裾を持ち上げたりする。ヒロ子さんは兄の手を払いのけたそうにしていたが、払いのけることはせずにもじもじするだけであった。母が兄とヒロ子さんを吊り床のある部屋に連れていって襖を閉めた。初夜の儀式を行うのである。寿司の入っていた桶を片づけたりコップを洗ったりしながら、家族はいつもの電話のときのように聞き耳をたてた、しかし部屋からはこそという音も聞こえないのであった。睦言も聞こえず、叫びも囁きもない。何回か母が襖を細く開けてうながすような身振りをしたが、兄もヒロ子さんもこそとも動かない様子だった。真夜中まで待って、家族は吊り床に寝るために部屋に入っていった。兄もヒロ子さんも吊り床に横たわってすやすや寝息をたてていた。ヒロ子さんは金の衣装を綺麗につけたままだった。  上の兄が、また出た。ヒロ子さんが胸を押さえて苦しんだのである。明け方、金の衣装をつけたまま、ヒロ子さんは、ひゅうという音をたてて苦しんだ。家族は皆起き上がってヒロ子さんをさすったり撫でたりしたが、ヒロ子さんは苦しむのを止めなかった。私だけには兄の姿が見えていた。兄は呑気な顔をして、ヒロ子さんの胸にまたがってヒロ子さんに接吻していた。たいそう嬉しそうに接吻をしていた。次の兄は少しだけ気配を感じたのか、兄さん兄さんと言ってヒロ子さんを揺すったが、姿は見えていない様子だった、その証拠に次の兄が揺すっているのは見当違いの場所だった。 「ねえ」私は小さな声で上の兄に訊ねてみた。「ねえ、ヒロ子さん苦しそうよ」 「そんなことはない。ヒロ子さんは嬉しいんだよ」兄は言って、強く接吻する。ヒロ子さんはそのたびにからだを海老のように丸めて苦しい身振りをする。兄がヒロ子さんに接吻したぶぶんが赤く腫れあがった。頬や腕の内側や胸が、ちょうど虫に刺されたときのように腫れあがった。母も父も次の兄もおろおろして部屋の中を歩き回っていた。 「やめたら」そう言うと、上の兄は悲しそうに「だってヒロ子さんは俺と結婚するはずだったんだから」と答えた。そう言われると何も答えられなくなってしまう。 「まだ淋しいの」聞くと、兄は答えずにさらに激しく接吻した。ヒロ子さんは苦しそうに額に皺を寄せている。そのうちにヒロ子さんは卒倒して、からだの緊張を解いた。途端に上の兄は消えていなくなった。  誰にも兄の姿は見えていなくて、卒倒したヒロ子さんを介抱するのに忙しいのだった。私はヒロ子さんが少し妬ましかった。ヒロ子さんのように、兄から接吻をしてもらいたかった。兄の膝の上で、兄から強く接吻をしてもらいたかった。 「鶴が鳴いてます」とヒロ子さんが言うようになった。たとえば母と並んで錫《すず》の食器を磨いているときや父の肩を揉んでいるときに、ヒロ子さんは小さく首をかしげて今まで喋っていた言葉を途切らせて、そう言うのだった。そう言ったとたんにヒロ子さんは一回り縮む。ひゅん、と音をたてるようにして収縮してしまうのであった。  鶴の鳴くような音は聞こえず、だいいち鶴の鳴く声というものがどんなものなのだか家族の誰も知らないので、父も母も次の兄も困惑してヒロ子さんを眺めるだけである。一回り小さくなったヒロ子さんは、食器磨きまたは肩たたきを続けながら、何回でも「鶴が鳴いてます」とつぶやく。一回り縮んだために錫の食器はヒロ子さんの手に余り、肩を叩くヒロ子さんの手の力は弱まる。次の兄が睦言を言うことはなくなり、それは結婚してしまったからなのであるが、睦言を言わないのが不満で鶴の鳴き声なんかが聞こえるのじゃないかと母がそっと兄に耳打ちしてみたりもした。兄は面倒そうに耳打ちを聞いてから、おざなりな睦言を縮んだヒロ子さんに囁いたが、ヒロ子さんはぼんやりとした眼差しで睦言を聞くばかりだった。兄の睦言には婚約時代のような力がなく、ヒロ子さんだけでなく家族の誰ももう聞き耳をたてようとはしなかった。  鶴の鳴き声は私にも聞こえなかったが、このごろゴシキの声がしばしば聞こえるようになっていた。クナニラクナニラ、というゴシキの声は朝氷の張った道を歩くときや暮れがたに団地の陰にある道を行くときなどにはっきりと耳に届いた。ゴシキゴシキと呼ぶと、ゴシキの声はますます耳に近くなる。ゴシキの声が聞こえると、ヒロ子さんが鶴の声で縮むのとはちょうど正反対に、私の体は一回り太るような感じになるのだった。寒い道を歩きながらゴシキの声が体に流れ込むと、温かいものが注入された袋のように、私の体は膨らんだ。  ヒロ子さんの姿は日に日に縮むばかりで、あれ以来上の兄も現れないし、どうもヒロ子さんはこの家族になじめないのかもしれなかった。最後には掌《てのひら》に載るくらいの大きさになってしまい、眠るときにはヒロ子さんを拾って吊り床にそっと置かなければならないし、台所のことだってぜんぜんできなくなっていた。次の兄がヒロ子さんに話しかけようとしても、「声が大きすぎる」と耳を塞ぎ、畳の部屋を朝から晩まで小さな箒で掃くばかりなのだった。朝から晩まで掃いても、小さなヒロ子さんが部屋じゅうを掃き終えると夕方になってしまう。夕食になれば、小さく盛ったにんじんや小松菜や魚を大儀そうに食べながら「鶴の声が聞こえる」と言うヒロ子さんを、家族じゅうが持て余して、遂に母がテンさんに電話をかけた。  テンさんと母の電話に、家族全員が聞き耳をたてた。 「ヒロ子さん、縮んでしまって」母が言うと、テンさんはふーむというような音を受話器越しにたてた。 「駄目かね、ヒロ子さんは」「駄目だと思います」  そんなやりとりが交わされている間、次の兄は部屋の隅で横になってを削っていた。ヒロ子さんは小さい体のまま、まだ畳の部屋を掃いていた。 「駄目なら返すかね」テンさんが言い、ヒロ子さんは元の家族に帰ることになった。 「どうも駄目だね、最近の縁談は」テンさんが言うので、家族はいっそう聞き耳をたてた。 「駄目ですか、最近は」母が聞きたそうな声で聞くと、テンさんはまたふーむという声をたてながら言った。 「最近十年くらいはうまくいったためしはないね」  そのように誰もうまく縁談を組めないという話は初耳だった。テンさんはしばらくうーむうーむと唸っていたが、そのうちまたいつもの声になって「おたくの娘はどうだね」と聞いた。娘というのは私のことである。いつか来ると思っていたが、ゴシキの声が頻繁に聞こえはじめ体が膨れはじめてからは覚悟が決まっていたようにも思う。この家族を離れて違う家族に行く、その縁談が母とテンさんの間で早速交わされていた。  ヒロ子さんの後始末について母とテンさんの間で話がまとまると、次には私が新しい家族に引き合わされる一ヵ月後の相談が始まった。父と私はテンさんと母の電話に聞き耳をたてていたが、次の兄はを削るのに気を取られていたし、ヒロ子さんは畳を掃くばかりで、そうやっているとまるで消えてしまったもののように二人のいる気配というものは、ないのだった。消えたものはそれでもいくらか気配があるのに、目に見えている二人はそれよりも気配のないものに思えるのだった。気配のない二人の代わりに、上の兄が私の隣に出てきて母とテンさんの電話に聞き耳をたてた。兄は私に強く接吻をしたり私の腕をさすったりした。そうされると、私の体は水のいっぱい詰まった袋のようにたぷたぷと気持ちよく揺れるのだった。  ヒロ子さんの後始末はかんたんに行われた。すっかり縮んで芥子の実ほどになったヒロ子さんを潰さないように、ガーゼを敷いたガラスの入れ物にしまってヒロ子さんの家族を待った。ヒロ子さんの家族は婚約のときにこの家族が持参した昆布とするめを納め、代わりにガラスの入れ物が注意深くヒロ子さんの家族に渡された。 「縮むことは多いんですか」最後に父が訊ねると、ヒロ子さんの祖父がひそひそ声で、 「よく縮みます」と答えた。父と母は顔を見合わせていた。 「この家族はよく消えます」そう父が言うと、ヒロ子さんの祖父は重々しく頷いてから、 「家族ごとにありますなあ」と言った。  上の兄がまた出てきて、部屋の中央で何かを唱えていた。次の兄はヒロ子さんが縮みはじめて以来すっかり気力を無くしたままである。相変わらずを削っている。 「何か、気配がします」ヒロ子さんの祖父が言った。上の兄のことを感じているのだろう。私にはゴシキの声が高く聞こえていた。兄が唱えるなにかはっきりしない調べに重なって、ゴシキの、クナニラクナニラがひっきりなしに聞こえていた。ヒロ子さんの家族が玄関の扉を閉じようとするその刹那、母が思い出したように聞いた。 「管狐はほんとうにいい匂いをさせるんですか」  ヒロ子さんの家族は不思議そうな表情で母を見た。管狐? そうヒロ子さんの祖父が聞き返し、管狐です、母が答えた。そんなもの聞いたこともありませんね、何のことを言ってらっしゃるのやら。ヒロ子さんの父が言うと、父と母は一瞬体をわななかせたが、すぐに元の様子に戻った。  縮んだヒロ子さんとその家族が去ると、上の兄は消えゴシキの声も止んだ。父と母に管狐のことを問うと、父も母も不思議そうな顔をした。何のことを言っているのか、そう母は言い、父はさかんに首を横に振った。それじゃあ上の兄は、そう重ねて問うと、ますます父と母は不思議そうな顔をした。まったく何を言ってるんだか、今日は疲れたね、なんでかわからんけれど、疲れたね、母が肩を叩きながら言うと、父も同調する。ヒロ子さんは元の大きさに戻るのかしら。ヒロ子さんて何かね。ヒロ子さんはヒロ子さんでしょ、次の兄と結婚したじゃない。知らないわね、お父さん知ってる? 知らないね。  次の兄の削るが部屋に溢れて、匂いが強い。父も母ももう私の言うことに耳を貸さずに、吊り床に入って寝てしまった。私はゴシキの声を聞くために家を出て団地の中央公園のあたりをうろうろしたが、ちっとも聞こえなかった。そのうちに、上の兄もヒロ子さんもほんとうにいたものなのか、朦朧とした心持ちになってきた。家に戻ると、吊り床で父と母が大きな寝息をたてていた。次の兄の姿はもう見えず、ばかりが部屋じゅうに落ちていた。朝になって見ると、そのもきれいに片づいていた。吊り床はいつの間にか三つに減っていた。  また季節が変わって、家族は香を焚《た》くようになった。そういう風習がこの家族にあったのかどうか、前には香など焚かずその代わりに違うことをしていたような気もしたが、思い出せない。父と母の間にはさまって、私は香の匂いを多く吸い込んだ。  私の体は大きな筒のように膨れている。前の季節から膨れはじめていたのが、この季節になってますますはなはだしくなった。父と母は、膨れる私をいつくしんでもっと膨れるようにと食物を与えた。家の中が前よりも空いたような感じがして、それで私を膨らませようとしているのかもしれない。消えた上の兄と次の兄についてはっきり思い出す日もあったし、そんなものははなから無かったのだと思う日もあった。香の匂いは白檀に似ていて、その匂いを嗅ぐとゴシキの声がはっきりと聞こえた。ゴシキの声だけはいつでも確かにある。クナニラクナニラクナニラと長く尾を引くようなゴシキの声を聞きながら、私は婚約者に電話をかける。婚約者には婚約の儀のときに一回会ったきりで、その顔は上の兄にそっくりであったが、上の兄の顔というものをよく覚えていないのでそっくりというのは変なことか、以前に撮った上の兄の写真を見てもよくわからない、実際の上の兄はもっと厚みのあるものだったのに写真はいやに平らである。しかし電話で聞く婚約者の声は甘く低いものなので、顔などはどうでもいいようにも思う。  この家族から抜けて婚約者の家族の中に入っていけば私もヒロ子さんのように変わった様子になってしまうのだろうか、こんなに大きく膨れている体がすうっと消えてしまうのだろうか、次の兄は愛と同じくらい深い沼の底に沈んでいくとそこにあるものは家族なのだと言った。次の兄が出てくることはまだない。上の兄はときどき出てきて私を愛《いつく》しむ。膨れた私の体をよいしょと言いながら横たえて、あのときヒロ子さんにしたように優しくまたは強く接吻して、私の髪を撫でる。私は昔のようにねこまのふりをして兄に膝枕をしたいのだが、私の体があまりに膨れているので兄は私を支えられない。だいいち兄は消えているのだから実体がないのだから、支えることなど出来るわけがない。父は毎日念仏を唱え、母は毎日香を選ぶ、私は家で上の兄が出てくるのを待ってはぼんやりと膨れ続ける、ゴシキの声がいつまでも聞こえていてうるさい、家族は毎朝柱に向かって柏手を打つ。  惜《あたら》 夜《よ》 記《き》   1 馬  背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった。  まだ黄昏時なのだが、背中のあたりに暗がりが集まってしまったらしく、密度が濃くなったその暗がりの塊が、背中に接着し、接着面の一部が食い込んでいるのだった。  振ったり揺らしたりしたが、夜は離れない。手で剥がそうとしても、実体を持たないふらふらしたものなので、みどころがなくて困る。いちばん濃い暗がりの部分を捕らえた、と思っても、見る間に暗がりは拡散していき、違う部分がこんどは濃くなってしまったりする。  そのうちに痒くてたまらなくなってきた。ばりばりと背中を掻いた。掻けば掻くほど、暗がりは背中に食い込み、食い込めば食い込むほど、痒くなる。堪らなくなって駆けだした。  駆けてみると、馬のような速さである。夜が食い込むと、なるほどこのように速くなるのかと感心しながら駆けた。道や歩く人や看板が、電車の窓から見る風景のように遠ざかる。  しばらく走っていたが、じきに飽きて止まった。馬のように体から湯気が立ちのぼった。鼻息も荒い。立ちのぼる湯気の中に、夜の暗がりが混じっているらしく、まわりを取り巻く空気が曖昧になる。何人かの人が遠巻きに眺めている。珍しいものを見るような様子で眺めている。  鼻息の中にも暗がりが混じり、吐き出されて暗い筋をつくって、どこまでも伸びていく。息を吐くと、筋は少し伸び、吸うと鼻に近い部分がいったん鼻に吸い込まれる。再び吐くとまた少し伸び、そうやって、暗がりは鼻に生えた紐のような綱のようなものになって伸びつづけた。  眺めている人のうちの一人が「いいものを見たねえ」と言って手を叩いた。ぽんぽんと、池の鯉を呼ぶような叩き方をした。他の見物人たちも倣《なら》って手を叩く。突然腹がたった。こら、と、叫ぼうとした。  叫ぼうとして声が出ないことに気がついた。こら、の、こ、が出ない。鼻息を荒くして、こ、こ、といきむが、鼻息がますます荒くなるばかりである。見物人は喜びさらに手を叩く。  あんまり腹がたって、飛び上がった。飛び上がりながら声をはりあげると、いななきになった。馬のいななきになった。そのままどこかの屋根の上まで飛んで、さかんにいなないた。下で見物人たちが手を叩いている。叩く音に負けないよう、何度でもいなないた。からだも馬になり、全身は黒い毛に覆われた。 「夜が始まるよ。夜の馬が来たよ」  さきほど最初に手を叩いた見物人らしき者が言い、それと共に体から噴き出す湯気は勢いを増し、暗がりは広がっていった。  得意になって、何回でもいなないた。いななくたびに、闇が濃くなっていった。   2 カオス  歩いているうちに、人が多くなった。一方向に流れている。流れにのって歩いた。  黄昏よりももう少し夜に近い時刻である。前を歩く人の輪郭はわかるが、何色の服を着ているかは定かでない。街灯夫が長い棒を持って流れに逆らうようにして街灯に近づいた。棒を街灯まで伸ばして何秒か静止すると、街灯がともる。見ると街灯夫は何人もいて、あちらでもこちらでも街灯がつぎつぎにともった。  人は先ほどよりも増え、そろそろ歩きにくくなっていた。 「あなたも行くの」  そう聞かれて振り向くと、髪の短いほっそりとした少女がすぐ後ろを歩いていた。 「まあね」  どちらとも取れる答えをすると、少女は持っている小さな鞄から紙包みを取り出して、開いた。鞄を探る間も紙を開く間も、少女は流れの速さで歩きつづけていた。押されるようにして、同じ速さで歩いた。  紙包みからは、緑色の切符があらわれた。 「一枚余っているから、あげます」  そう言って、少女は緑色の切符をこちらのポケットにするりと入れた。礼を言おうとすると、手を振って制止する。それから後方を指さした。流れがせき止められて、ひとびとが団子のように固まりはじめていた。平面の団子になったそのひとびとの上に、さらに後ろから来たひとびとが重なって、立体的な団子をつくりはじめている。  慌てて前を向いて歩きはじめた。前の人との距離がずいぶん開いている。追いつこうと走り始めると、ふたたび少女に制止された。 「走ると混沌が始まっちゃうのよ。まだまだ。まだまだ」  よくわからないことを言う。仕方なくまた歩いた。  終点が近いらしく、流れは太くなりつつあった。太くなったその突き当たりに、何かがそびえ立っていた。  切符切りが数十人並び、そこを通りすぎると、そびえ立っているものがはっきりと見えてきた。  大きな歌手だった。三階建てくらいの高さがあった。下から見上げると、顎の裏側にあるほくろや上下する胸の様子がはっきりと見てとれた。 「あれ、つけぼくろよ」少女がうっとりと言った。  歌手は、音試しをするように、いろいろな高さの音を出している。高音を出すと、歌手の頭のすぐ横に生えている丈の高い銀杏に止まっていた小鳥が何羽も飛び立つ。低音を出せば、地面が何箇所も盛り上がって、地中の小動物がわらわらとあらわれる。  歌手の前にある広場が聴衆でぎっしりになった頃に、歌手は前置きなしに歌いはじめた。大きな楽器が上空で鳴っているような、調べが空を泳いでいくような、そんな感じがしたと思ったら、歌手の声はすぐにすべてを覆ってしまっていた。声が聞こえるのではなく、声の中にいるようで、何が歌われているのか聞き取ることもできないのであるが、確かに歌手はたゆたうようにゆっくりと歌いつづけているのであった。  歌手の歌う調べに乗って、ひとびとは広がりはじめていた。ぎっしりと詰まっていた広場から、また流れをつくって、四方八方に流れていく。湖からあらゆる方向に流れ出ていく小さな川のように、連なって流れていくのであった。 「混沌が始まったわね」  少女は言うと、そばの流れに乗った。見る間に少女は流されていく。真似して同じ流れに乗ると、じきに少女に追いついた。 「どこに行くの」  聞くと、少女は気持ちよさそうに目を閉じたまま、何回か頷いた。 「どこなの」 「夜よ」  答えたとたんに、少女はがっくりと首を折って、深い眠りに落ちてしまった。眠ったまま、流されていく。  少女と並んで、混沌の一部になったまま、夜に入っていった。   3 紳士たち  階段を上がっていくと、扉があった。開けると、宴会が行われていた。  白い服を着た紳士が何人もいて、飲み食いしている。食卓の中心には、うに、ひらめ、ほたて貝、ほっき貝、鯛、しまあじ、まぐろ、いか、たこ、しらうお、などの盛られた大皿があり、そのまわりには煮たものや焼いたものや揚げたものの皿がぎっしりと置かれていた。紳士たちは盛んにぱくついている。 「ここの柔らかい部分がたまりませんな」 「いやいや柔らかくなってしまってはいけない。固いうちに食べるのが肝心」 「それでは夜明け前に海にもぐらないと」 「それだけの価値はあります」  紳士らしい物静かな口調で、いろいろ言い合っている。  あまり食卓の上のものが美味しそうなので、喉が鳴ってしまった。紳士たちはいっせいに振り向き、注視した。 「おや。遠来の客ですかな」 「客ですな」 「これは珍しい」 「祝すべきことでございますなあ」  言い合い、立ち上がる。ナプキンを椅子の上に置き、両手を差し出しながら、こちらに近づいてくる。 「よくいらっしゃいました」  先頭の紳士がそう言うと、他の紳士たちもくちぐちに「ようこそ」と言った。  食卓の中心にある席に案内され、ナプキンを首から下げさせられ、きらきら光るナイフとフォークをあてがわれた。 「どうぞ」 「どうぞどうぞ。ご遠慮なく」  ふたたび食卓についた紳士たちの顔がこちらを向く。右側にいる紳士たちは左に顔を向け、左側にいる紳士たちは右に顔を向ける。重ね絵のように、紳士たちの顔が中心に向かってつづく。 「さあさあ。ひらめもおいしいですよ」 「香炸鶏塊などいかがですか」 「豚レバーのガイエットもありますし」 「グーンキョワーンがよろしければ取り寄せますよ」  いっせいに勧められて、フォークが迷った。紳士たちはそのフォークの先をじっと見つめている。涎《よだれ》を流さんばかりに、フォークの先を眺めまわしている。  そばの皿に盛られている、種類のよくわからない肉らしきものにフォークを突き刺すと、ため息がもれた。 「ああ」 「遠来の客はさすがですな」 「目が高い」  味もわからぬまま、ナイフで細かく切ったそのものを食べた。 「次は何を食べますでしょうかね」 「ほらほら、余計なことを言うと客の気が散りますよ」  見られたままで食べた。食べるごとにため息や歓声やどよめきが起こり、味はますますわからなくなっていった。  腹がいっぱいになったのでナイフとフォークを置くと、紳士たちに睨まれた。 「客はあんがい腹が小さい」 「いやいや、ただの小休止ですよ」 「まさかこれでおしまいということはありませんよ」  いたたまれなくなって、食べつづけた。腹が破裂しそうになったが、食べつづけた。食卓の上の御馳走がほとんどなくなるまで、食べつづけた。ようやく終いに近づいたと思ってほっとしたのも束の間、一人の紳士が涼しい音のするベルを鳴らした。  奥の部屋から執事があらわれ、丸い銀の覆いをかけた大皿が何枚も運ばれてきた。 「客は果報者ですな」 「このような珍味佳肴を味わえるとは」 「夜明けまで、いくらでも好きなだけ食べられるのですな」 「ええ、夜が明けるまでは食べつづけていただきましょう」  もう一かけらの食物も入らないと思ったが、紳士たちはにこやかにきびしく眺めている。  窓の外で夜鳴鳥が鋭く鳴いた。もう食べられません、勘弁してください、そう言おうとするのであるが、言いだせない。  夜鳴鳥が、また、鳴いた。食卓の上の皿はぴかぴかと光り、皿の上のあらゆる種類の食物はつややかに息づいている。  夜は、始まったばかりなのである。   4 ビッグ・クランチ  長い間流されていたと思っていたが、起き上がってみると時間が止まっていた。時間が止まったので、長い間流されていたとしても、それはもう長い間ではなくなっているのであった。  一緒に流されていた少女の髪が腰のあたりまで伸びていた。時間は止まっているのに、少女の髪だけは伸びているのである。  おはよう、少女が目覚めたのを見て言うと、少女はくすくすと笑った。まだおはようじゃないわよ、まだ夜なのよ、そう言って笑った。  そうか、今は夜か、答えると、少女は腕をからませてきた。  少女の髪が少女の腕と共にからまる。髪はさらさらと暖かい。  長くなったね、そう言うと、少女は、でもあなたの髪は伸びてないのね、と言う。髪は、たしかに伸びていなかった。  少女の髪が生きもののように持ち上がって、首や肩を撫でた。くちづけをしようとかぶさると、少女は薄く開いたくちびるから息を吐き出した。少女の息の匂いは百合の花がしおれる直前の匂いと同じものであり、吐息の音は蝶が羽ばたくぬるい音と同じものであった。  少女の息を吸うようにしてくちづけをした。吸われて少女は少ししぼんだ。腕の中の少女は、次第に軽く薄くなっていった。胸の中に盛りを過ぎた百合の匂いが満ちて、息苦しかった。くちづけの味わいがあまりにも甘美なので、少女がしぼんでゆくことがわかっても、止められない。ますます少女はしおれ、胸には濃密なものが充満した。  てのひらに入るくらいに縮んでしまった少女を持ちながら、くちづけをした。足の先から頭の先までが痺れ、大きな柔らかいものに包まれているような心持ちになった。重なりあった巨大なはなびらのようなものに包まれた感触のまま、くしゃくしゃに縮んだ少女とくちづけをした。  ついに少女は直径一センチほどのものになった。くちづけをしているのだかくちづけの余韻にひたっているのだかわからないようになってしまってからも、少女の吐く息はますます百合の匂いに満ち、蝶の羽ばたき音にも似た息の音は耳にうるさいほどに高まった。  てのひらの上の少女を見ると、夜の中で白く光っていた。光沢のある少女の表面を撫でると、つるりとした暖かいような冷たいような感じがして、よく見ると少女は真珠玉になっていた。真珠玉の奥には、少女の顔がうつっており、うつっている少女の目の奥を覗くと、さらに小さな少女がうつっているのであった。  無限に小さくなっていくそれぞれの少女は、あいかわらず甘やかな息を吐き、静かにしかし執拗に、誘っていた。真珠玉の表面をてのひらでさぐると、それぞれの少女はひらひらと笑い、ますます誘った。  真珠玉を口に含み、舌の上にしばらく置き、それから呑みくだした。  無数の少女が喉から腹に降り、血管を通じてからだじゅうに広がった。爆《は》ぜるような快さの波がからだを駆けめぐったと思ったら、突然髪が伸び、止まっていた時間が流れはじめた。  少女のかけらがからだのすみずみに達するまで時間は流れつづけた。少女は細かな粒よりもさらに細かなものに砕かれて、からだの中をめぐった。めぐるごとに少女は均質化されて混じりあい、終いには少女が自分であるのか自分が少女であるのかわからなくなってしまった。わからなくなってから初めて少女を愛《かな》しむような心持ちになった。少女だか自分だかはっきりしないものを愛しんでいるような心持ちになった。  そう思った瞬間に、時間が止まり、しばらくすると、ものすごい勢いで収斂が始まった。   5 ニホンザル  いくら注いでもコップが一杯にならないと思ったら、コーヒーだったはずの液体が、いつの間にか夜に変わっているのだった。  コップに注がれている夜を覗き込むと、表面に近いところには小さな星やガスがうずまいていて、その底では何かが笑っていた。ぞっとして流しにコップを運び、入っていた夜を全部こぼしてしまおうとしたが、いくらこぼしても果てがない。  一時間こぼしても、夜はぜんぜん尽きない。排水口に吸い込まれても吸い込まれても、尽きない。あきらめてコップを戻してもう一度覗くと、底で笑っている声がますます高くなった。コップを壁に投げつけると、割れたかけらの間から夜がふわふわと広がり、ふわふわの中から笑いの主があらわれた。  大きなニホンザルだった。  歯茎を剥きだして、大きな声で笑っている。サルなのに人間のような声で笑うのに驚いて、掃除用モップの先でつついてみた。  つつかれて、ニホンザルは笑い止んだ。 「なぜそんな不作法なことをする」ニホンザルは恐ろしい声で言った。  謝ろうと思っても、舌のつけ根が乾いたようになって、声にならない。 「親に礼儀というものを教わらなかったのか」ニホンザルは、さらに大きな声で怒鳴った。  ぺこぺこ頭を下げて、少しずつ後じさりした。ニホンザルはにじり寄ってくる。 「謝りなさい」割れがねのような声が響くと、部屋の壁にひびが入った。  さらに後じさりすると、もう一度ニホンザルは「謝りなさい」と怒鳴り、同時に部屋の天井がどさりと落ちた。  間一髪のところでドアを開け、夜の廊下に飛び出した。隣近所の人が何人も出てきていて、落ちた天井を指さしては何か話し合っている。人垣をかき分けるようにして走りだす。瓦礫の中から怒ったニホンザルが大きな唸りをあげながらあらわれると、野次馬の人々は、蜘蛛の子を散らすようにちりぢりになった。  逃げ後れた何人かが、怒りで視界の狭くなったニホンザルに撥ね飛ばされ、遠くまで飛んだ。振り返って見ると、飛ばされた人々は笑いながら放物線を描いて夜の中に消えるところだった。一瞬気を惹かれて立ち止まりそうになったが、すぐ後ろにニホンザルの荒い息がせまっているのがわかって、反射的にまた駆けだした。 「謝りなさい」ニホンザルは、はあはあと息を切らせながら言う。  謝りたいのだが、一度勢いのついてしまった足が止まらない。 「謝りなさい」はあはあいう息はそのうちぜいぜいになって、ぜいぜいの中に、雷鳴のような音まで混じるようになった。 「謝りなさい」首筋のすぐ後ろでニホンザルが言うと、何十もの雷鳴が響きわたる。雷は次第に激しくなり、空の高いところで稲妻もしきりに光る。雷鳴と稲妻の間隔が短くなり、じきに雷が鳴るのと同時に稲妻が光るようになった。何回も落雷があり、そのたびに闇が白色に変化してはふたたび闇に戻った。足が地面を蹴る速さは、雷が鳴るごとに高まる。  音速を超えてしまったらしく、雷鳴が聞こえなくなった。稲妻だけがひっきりなしに光り、その中をニホンザルと一緒にびゅうびゅうと駆けていく。ニホンザルの「謝りなさい」という言葉も、もう聞こえない。音のない中を必死に駆けていく。  遂に疲れて足の動きが鈍くなり、ニホンザルに追いつかれた。ニホンザルの足の速さは緩まない。見る間に追い越していったと思ったら、すぐに見えなくなった。  少しずつ足の動きが遅くなり、それにつれて音が戻ってきた。ニホンザルの荒い息や雷鳴が、最初は水の中を通した音のように曖昧に、そのうち次第に明瞭に、耳の外からやってきた。次の瞬間には、あらゆる音がいちどきに押し寄せ、溢れた。  音の洪水のようなものの中で耳を澄ませると、その洪水の底でひときわ大きく鳴っているものがあり、よく聞いてみると笑い声だった。  夜の中に鳴り響く音の中でも、ひときわ力強く鳴り響いているのは、ほかならぬ、ニホンザルの笑い声だった。   6 非運多数死  しばらく質量がなくなっていた。質量がなければ存在しないような気がするのだが、しかし確かに自分がいるのはわかった。面妖である。  自分がいるだけでなく、例の少女もすぐ側にいる。少女も質量がなかった。何もないところから少女の動く音が聞こえた。それで、少女がいるのがわかった。  少女に声をかけようとしたその刹那に、おびただしい光があたりを照らした。  夜空の一角から光は射していた。その部分だけ夜をはぎ取ったように、空が四角く切りとられていて、四角から溢れる光が拡散せずに直進してやってきていた。はたから見れば、四角い光の柱が地上から天に向かって立てられたようであったに違いない。  光に照らされて、質量があるようになった。あらたかな光なのであった。質量はあるようになったが、わずかな質量だったので、二人ともひどく小さかった。ねずみなんかよりも、もっと小さかった。  小さいまま、少女に向かって「愛《いと》しい」と言った。ふりそそぐ光の中で「愛しい愛しい」と言った。言うたびに、大地から妙なものが生まれた。  最初は少女のできそこないみたいなものがあらわれた。目の前にいる小さい少女の二倍くらいの大きさで、金属製だった。ぎしぎしと光の外に歩み去った。  二番目にもまた少女のできそこないがあらわれた。銀色だった。光に照らされるので銀色なのかと思ったが、光の外に出ても銀に輝いていた。顔から手から足からみんな銀で、威嚇するように輝きわたっている。金属製の最初のを追って、これも去った。銀の軌跡が残像となっていつまでも目の中に残った。  三番目も少女のできそこないで、これはほとんど少女にそっくりなのであるが、ただ尻尾が生えているのだった。尻尾をひとしきり振り回してから、前の二人を追った。  四番目の「愛しい」を言おうとすると、少女が手を伸ばしてきて口を柔らかくふさいだ。口に当たる少女の手は夜の香りがする。少女の手をはずそうとしてゆっくりと手首をつかんで下に移動させた。 「どうして」と聞くと、少女は「だって、それ、嘘でしょ」と言う。  そっと抱き寄せると、同じように抱き返してくる。「そんな簡単に言えることじゃないでしょ」と言いながら抱き返してくる。図星をさされた、と思いながら抱き合ううちに、また「愛しい」と言いたくなってしまった。  嘘なのだからやめればいいのに、つい言ってしまった。言ったとたんに地面がごうごうと響き、ぱっくり割れたと思ったら、正確な質量の自分と少女が生まれ出た。巨大に見えるその二人は、にこやかに微笑みながら、一番目に生まれた金属の少女と二番目の銀色のと三番目の尻尾の生えたのをその巨大な目で難なく夜の中から見つけ出し、鞄の中にしまった。それからこちらに向き直ると少女をひょいとつまみあげ、同じく鞄にしまった。  最後に自分もしまわれるのかと待っていると、あんのじょうしまわれた。  しまわれたまま、もう出してはもらえなかった。   7 泥鰌  水槽の中には泥鰌《どじよう》のようなものが何匹も泳いでいて、それをすくい出しては、ぴしゃっ、ぴしゃっ、と、投げつけている。投げつけているのは、子供だった。  投げつけられた泥鰌は、いったん仮死状態になってから生き返り、水の脈を残しながらそこらに多くある水たまりにもぐっていく。 「そんなに投げると泥鰌が死んでしまう」と注意すると、子供は眉をしかめた。 「死なないよ」低い声でそう言って、ぴしゃっ、ぴしゃっ、と、投げつける。  長い間投げつけているのに、水槽の中の泥鰌は、ちっとも減らない。小さな蛍光灯が水槽に取り付けられていて、闇の中に水槽を浮かび上がらせている。子供はその光から少しはずれたところにいるので、顔はしかと見定められない。  投げても投げてもなくならないどころか、少しずつ増えているようにも見える。 「柳川は好き?」子供が訊ねた。 「え」と言うと、子供はひときわ大きな音で泥鰌を投げつけながら、もう一度「柳川」と言った。 「まあね」 「それならこの水槽、あげるよ」ますます低い声で言う。  泥鰌などにかまわずに通り過ぎてしまえばよかったのである。子供は濡れた手でこちらの袖口をみ、泥鰌を握らせてくる。 「おいしいよ」  言ってから、また、ぴしゃっ、と投げる。  闇の底の方で何匹もの泥鰌がうねうねと水たまりに向かって移動する。水たまりは泥鰌を飲み込むとじきに消えて、次の泥鰌が投げられるとふたたびすうっとあらわれる。 「いや、泥鰌はいらない」  答えると、子供はうなだれた。 「どうしても?」そう聞いて、うううっ、というような声をたてる。  どうにも気味が悪くて、子供から離れようと思った。握らされた泥鰌をこっそりと地面に置き、なにくわぬ顔で歩き始めようとした。ところが地面に泥鰌を置いたとたんにそこに大きな水たまりができて、足元まで広がってくる。水たまりは油を流したようにとろりとしていて、泥鰌がもぐり込んでもさざ波ひとつ立たない。 「どうしても?」もう一度子供が聞く。 「どうしても」  答えると同時に、子供に強く押されて水たまりに落ちた。引き込まれて、どんどん沈んでいく。頭まで沈んで見渡すと、暗い。夜なので暗いのか、暗いたちの水たまりなのかわからないままに見渡していると、目が慣れてきた。  沈んでいく先の奥底に、無数の泥鰌がいる。嫌だ嫌だと思って手を見ると、すでに鰭《ひれ》に変化しはじめていて、足先も尻尾になりかけている。泥鰌は嫌だと強く思うと鰭は元の手になるが、油断するとすぐに鰭に戻る。 「それでも水槽はいらない?」頭の上から子供の低い声が降ってくる。  いまいましかったが、仕方がない。 「柳川は大好きだ」大声で答えた。  子供の手にまれて、ぴしゃっ、と地面に投げつけられた。うねうねと子供の足元に行き、子供の足を這い登った。足から腰、腰から腹と這い登り、やっと子供の腕に達した。うねうねと手まで達すると、子供はまたんで、ぴしゃっ、と投げつけた。  七回同じことを繰り返して、やっと人の姿に戻った。 「柳川は好きでしょう」子供が念を押すので、 「柳川は大好きだ」とふたたび答えた。  水槽を押しつけると、子供は水たまりの中に身を躍らせて、消えた。水たまりはしばらくしんとしていたが、やがてなくなった。  水槽の中の泥鰌がますます増えている。水面までぎっしりと泥鰌が詰まったようになっている。  夜の中に水をこぼさないように気をつけながら急いで帰り、柳川の用意をした。ごぼうをささがきにして、ありったけの鍋を煮立たせた。いちどきに泥鰌を鍋にあけ、蓋をすると、いい匂いがたちのぼってきた。 「柳川は好きでしょう」もう一度どこからか子供の声が聞こえ、それを合図に、夜に住むあらゆる生き物が戸の隙間から入りこんだ。それから、柳川をむさぼり食った。   8 シュレジンガーの猫  知らないうちに少女とはぐれ、探しても探しても少女は出てこないのであった。  月は高いところに行ってしまい、地面の上には夜の植物の影が薄い月明かりに照らされてぼんやりと映っている。 「おおいおおい」と呼んでも、少女はちっとも答えない。何回呼んでも出てこない。  月の作るぶわぶわした影を辿って歩いていくと、柔らかな少女の殻がいくつも脱ぎ捨ててあって、そのたびに本物の少女かと抱き上げるのであるが、どれもただの脱け殻なのである。  長い間見知ったようでもあるしほとんど知らないようでもある少女のことをなぜこれほど探すのかよくわからぬままに、探しつづけた。少女のことを好きかと問われれば好きであると答えるかもしれないし、さほどでもないかと問われればさほどでもないと答えるようにも思う。探し始めてしまったので、探しつづけているのかもしれなかった。  今まででいちばん大きな少女の殻を拾うと、まだ温みが残っていた。おそらく間近に少女はひそんでいるのであろう。おおいおおいと呼びながら、歩いた。  月に映し出された影の群れが尽きるあたりに大きな箱が置いてあって、触るとあたたかく震えていた。  少女の入った箱に違いなかった。さきほどよりもさらに大きな殻が箱のすぐ前に脱ぎ捨ててある。殻はまるで生きた少女のように半分膝を崩した様子で地面の上に横たわっている。そっと撫でてみた。しかし殻なので些《いささ》かも動かなかった。  すぐさま箱を開けようと思って開け口を探したが、つるりと白い箱に取りかかりはなかった。そのまま迷っていると、箱は大きく震える。  開けて、と言っているのか、開けないで、と言っているのか、ぶるん、ぶるんと震える。箱ごと抱きしめ、頬ずりした。  いつまでも頬ずりしていても仕方がないので、どうにか箱をこじ開けようとするのだが、箱の表面はどこまでも滑らかなのである。押してみても指の跡ひとつ付かない。小さなナイフを懐から出して箱につきたててみても、跳ね返されるばかりだ。  往生して考えこんだ。  箱は何回でも、ぶるん、ぶるんと震える。斧で箱を叩き割ろうかと考えた。しかしそれでは中の少女まで割れてしまうかもしれない。ではこのまま箱を持ち帰り、部屋の中で永遠に箱ごと愛でていようか。しかしそれでは少女はいないも同然である。  考えに考えた。  今この箱の中にある少女とはいったい何であろうか。いるようでいない。いないようでいる。いるといないが半分ずつ混じったような、そんなものなのであろうか。  横たわる少女の殻を足先で触りながら、考えに考えた。  考えているうちに辛抱できなくなって部屋に飛んで帰り、げんのうをかかえて引っ返し、めくらめっぽうに箱を叩きこわした。  こわれた箱の中から少女はあらわれた。あらわれた少女は予想通り割れて崩れた少女なのであった。悲しくておいおい泣いた。なぜ箱をこわしてしまったのかと悔やみながらおいおい泣いた。しかしこわさずにはいられなかったのである。  いるようでいない、いないようでいるなどという馬鹿馬鹿しい状態をどうやって持ちこたえることができようか?  量子力学を深く恨みながら、おいおい、おいおいと、泣きつづけた。   9 もぐら  ぶつかった拍子に、男の懐からは何匹ものもぐらがこぼれ落ちた。 「しまったしまった」騒ぎながら拾い集めている。  知らぬふりで行き過ぎた。夜の中で会う者にかかずらわると、どうも碌なことがない。 「待て待て」と叫びながら、男はもぐらを追いかけ廻しているようであるが、振り向かずに早足で歩いた。  声の聞こえないところまで歩いて、立ち止まった。追ってくる様子はない。しばらく待ったが、何の気配もない。もっと待ったが、こそとも音は聞こえない。天頂にある月を見たり風がざわりと起こるのを確かめたりしたが、何事も始まらない。  つまらなくなって戻った。  探し始めるとみつからないもので、どれだけ戻っても男の姿はなかった。時おりもぐらがうろうろしているので、それを頼りに道を戻った。  もぐらを辿って歩くうちに深追いしすぎたらしく、知らぬ道に入り込んでいた。道のあちらこちらからゆるい調べが流れていた。調べを聞いていると、眠ってしまいそうになる。聞くまい聞くまいと思っても自然と耳に流れ込み、身も心も眠らせようとする。  我慢できずに地面に寝そべった。昼間の光に暖められて、かすかなぬくみがある。ああもう眠ると思った。思ったとたんに男にたたき起こされた。 「この横筋野郎め」  激しい口調で罵倒する。飛び起きた。 「そういう料簡で世の中渡って行けると思っとるのか」  続けさまの罵倒である。呆気にとられて男を眺めると、ますます罵倒する。 「おまえには三角意識というものがないのか」 「とんでもない四化螟虫だ」 「こうなったら折って畳んで逆さに振ってしまいには壺月にしてやる」  勢いに押されて何も言い返せないでいると、はっしと睨み付ける。よく見ると、男の顔はもぐらそっくりであった。そっくりというよりも、もぐらそのものであった。もぐらそのものの男が、懐にいっぱいもぐらを隠して罵倒する。 「おととい会ったら大恐慌だぞええまったく」 「いかにも坂にも讃歌の根本」  だんだんわからなくなってくる。もぐらなのだから仕方がないと思い、黙って聞いていた。うなだれた様子をしていると、次第に静まってくる。最後にははあはあと息を吐くだけになった。  息を激しく吐きながら、寄ってきた。  びくびくしながら顔を上げると、肩を抱きにくるところだった。顔を寄せてふんふん嗅ぐ。丁寧に、何回でもふんふん嗅ぐ。すっかり嗅ぎ終わると、突然相好を崩して「やあ」と言った。 「やあ、さきほどは失礼いたしました。少々気が立っていたものですから」  百八十度の変わりようである。 「よかったらお近づきになろうではありませんか」  言いながら、手を差し出す。掌は漆黒で、鋭い鉤《かぎ》がついていた。握手を返しながらそっと窺うと、神経質そうに瞬きを繰り返している。油断できないと肝に銘じた。 「ご趣味は何ですか」 「近頃儲かりますか」 「どこか面白い店を知ってますか」  つぎつぎに聞いてくる。当たり障りのない答えをしながら、さらに様子を窺った。  気がつかないうちにまたあの小路に入り込んでいて、調べが聞こえ始めていた。油断してはいけないと何回も思うのであるが、調べが耳に入るごとに、からだのどこかの箍《たが》がゆるんでくる。 「お好きなタイプの異性は」と聞かれる頃には、すっかり油断が身体中に充満していて、ついにむずむずする口を抑えられなくなってしまった。  小さな声で答えた。  聞こえなかったらしく、もう一度「え」と大きな声で聞き返された。 「モグラモチ」  答えた途端に、男の懐いっぱいに詰まっていたもぐらが溢れでて、道いっぱいに広がった。男は拳を握りしめる。 「モグラモチ、ですか」  わなわなと震えながら、男が答える。  もぐらは陸続と男の懐からわき出て、地面は折り重なったもぐらでいっぱいになる。もぐらたちのたてる密やかなざわめきが、夜を満たす。   10 クローニング  しばらくばらばらになった少女をかき集めて泣いていたが、泣いていても何も始まらないので、元締のところに少女のかけらを持っていくことにした。  元締のいる場所が近くなるにつれて、騒音が大きくなった。ごうごうというその音は、大きな風車が回る音なのである。風車は元締の座っている玉座の後ろで回っている。風車は夜を集めては、かき回しているのであった。  かき回された夜はいったんゆるやかな流れを作り、それから固まっていく。もう夜も半ばに差しかかっているので、夜の体積の半分近くが固められ、そのために夜の中を歩いても、夜の始まりの頃の浮遊感はなかった。代わりに、みしみしいう感じの確固としたものがあって、それはそれでまさに夜らしい感じなのではあった。 「再生をお願いいたします」  地面に膝をつき、最上級のお辞儀をしながら、言った。 「再生とな」  元締は目を細めながら答える。元締の体は玉座に沈み込んでいる。あまり大きな元締ではないのである。元締が手にしている錫《しやく》に嵌まった巨大な青い宝石が、ちらりとまたたいた。 「元締様なら再生能力がおありになろうかと存じまして」  もう一度深々とお辞儀をしたが、元締はお辞儀が終わるのを待たずにせかせかと答えた。 「儂《わし》はいやじゃ」 「なんと」 「少女の再生などまっぴらじゃ」  そう言ったっきり、もう取り合おうとしない。何回かまた最上級のお辞儀をしてみたが、効果はなかった。もともと儀礼的なことが嫌いなのかもしれなかった。  がっかりして立ち去ろうと後ろを向くと、肩をつつかれた。冷たい肌触りのものでつつかれたと思ったら、元締の錫の先でつつかれているのであった。 「儂はいやじゃが、どうしてもと言うならおまえが再生してみればよかろう」  そう言って、つつく。難しい顔をして立っていると、何度でもつつく。つつくたびに、巨大な青い宝石がいちいちまたたいた。 「そういたします」  つつかれるの嫌さにそう言うと、元締はやっとつつくのを止め、元のように玉座に沈み込んだ。風車がごうごうと鳴る。  元締からだいぶ離れた場所まで歩いていって、少女のかけらをより分け、再生に使えそうな細胞核を取り出した。いつも元締がやっているように、肘の内側の細胞にマイクロピペットで細胞核を注入し、さらに元締の真似をしてとんぼを三回きった。とんぼがえりと再生がどう関係するのか知らないが、ともかく元締が行うことは何でも真似しておこうと思ったのである。  しばらく待ってから、仮眠状態に入った。  そのまま長く仮眠して目覚めると、相変わらず夜だった。それではやはり再生はならなかったのかとがっかりして肘の内側を見ると、なんと細胞塊のようなものが出来ているではないか。  喜び、背中を地面につけて独楽《こま》のようにくるくる回るダンスを行った。意味は知らないが、これも元締の真似である。細胞塊は次第にかたちをとりはじめ、勾玉や紐や毬やその他いろいろなへんな形に変化しながら、最後は遂に少女らしきものになった。すでに腕は少女らしきものの重さで痺れ、ちょっとも上げることができない。切り離す時がきたと思い、針金で少女のつけ根を縛った。じきに少女のつけ根が腐り、少女はぽろりと落ちた。  落ちるとすぐさま少女は再生のダンスを踊り、それから軽く接吻をしてきた。  少女は再生したが、いやに機能的に再生してしまったので、少し釈然としなかった。あまり熱心に接吻を返さないでいた。少女はかまわずに接吻してくる。  離れたところから、風車のごうごういう音が聞こえてきた。固まった夜の空気がときどき体に当たっては、ふたたびどこかにひょんと飛んでいってしまう。 「もうあたしのことなんてどうでもいいのね」不熱心な様子を察して少女が言った。 「いや」  曖昧に答えると、少女はわっと泣き伏した。構いたくなくてほうっておいた。 「再生したのに。せっかく再生したのに」  そう言ってわんわん泣く。うるさいので背を向けて歩き始めた。少女は泣きながらすがりつく。 「ひどいわ。ここまできておいて」  何と言われても、気持ちが奮い立たない。我ながらひどい人間だと思ったが、どうしようもない。 「お願い、もう一度よく考えて」少女が嘆願する。夜の塊がさきほどよりも激しく体に当たるようになっていた。流星雨のように、夜の塊は降りそそいでくる。夜をよけながら、首を振った。 「そう。それならいいわ。あたしにも考えがあるわ」  言うなり少女は細い抜き身のナイフを一閃させ、切りつけてきた。あっと思う間もなく、右胸の肉が一片切り取られた。少女は身を翻して駆け去った。ぼんやりと胸から垂れる血を見ているうちに、はっと思い当たった。  見つからないようにこっそりと元締の場所まで戻ると、案の定少女は元締に肉片を渡しているところだった。元締はおうように頷き、すぐさま再生を行った。見る間に自分と同一物が再生され、少女は嬉しげに再生物を受け取った。  手に手を取って去る少女と再生物を見送ってから、元締の前にまかり出た。 「こういうものなのでしょうか」  聞くと、元締はおっほんと咳払いをして、重々しく頷いた。 「だいたいがこういうものであるかもしれぬ」  元締の錫の宝石が大仰に青々と光る。 「不満か」  元締が聞いた。 「少し」 「何が不満か」 「わかりません」正直に答えた。 「わからないなら、また再生してみればいい」  風車からの風が直接目や頭や腹に当たり、夜の成分をなすりつけてくる。夜が当たった部分はしばらく黒々と光ってから元に戻る。  元締に言われた通り、再生を行った。何度でも少女は再生し、何度でも同じことが繰り返された。 「あなたも飽きないねえ」何度目になるか忘れるくらいの回数再生を行って出て来た少女がナイフをきらめかせた時に言うと、少女は哀しそうにうつむいた。 「だって、あたしはいつも新しいから。あたしにとっては初めてのことだから」そう言って、細い首を折るようにしてうつむく。  うつむいた少女が可哀相になり、はじめて自分から少女に接吻した。少女は脱力したまま接吻に応える。ますます可哀相になり、力をこめた。力をこめているうちに、執着する気持ちが少し戻ってきた。 「あなたでもう再生はやめる」そう言い、少女を強めに抱きしめた。  これが結局順当なのだろう。半分諦めたような心持ちで思いながら、少女を抱きしめた。  固まりかけたクリームのように、夜が体のまわりで相を変えはじめていた。少女はまだ脱力したままである。 「いやよ」  思いがけず、少女は、地の底からわき上がってくるような声で言った。 「ふん」  少女は思い切り体を引き離した。はずみで手を地面についてしまう。 「さよなら」  そう言って、少女は今まで通り胸の肉を削ると、嬉々として去ってしまった。  悄然と元締のところにまかり出た。 「こういうものなのでしょうか」再び聞くと、元締は落ち着きはらった様子で答えた。 「だいたいがこういうものであるかもしれぬ」  悄然としたまま退場し、最後の再生を行った。再生された少女を大事に抱え、夜の奥へと入っていった。できるだけ元締から遠く離れるよう、奥へ奥へと入った。  そのまま少女の手を握り、眠りについた。しばらくは目覚めたくないと強く願いながら、浅い眠りについた。   11 ツカツクリ  深緑と金茶の房を垂らしたびろうどの布の上にその者は座っていた。びろうどの布は高さ五メートルはあろうかという塚の上に敷かれている。塚は朽ちた木の枝や葉そして柔らかな土をかためたものである。その者は片膝を突き掌を上に向け、何かを待ち受けるかたちで座っている。裾広がりに聳《そび》える塚からは発酵臭とともにゆるい蒸気がたちのぼっていた。蒸気はときには薄くときには靄のように濃くその者の肢体を取り巻き絡めとる。取り巻かれ絡まれながらその者は待つ姿勢を崩さない。  こうこう。  鳥が鳴いた。鶏ほどの大きさの鳥が塚のまわりに散らばりしきりに鳴くのである。雉にも似た鳥はその者を威嚇するようにまたその者に向かって懇願するように首をもたげ鳴き騒ぐのである。騒がれてその者はこそとも動かない。像のように相変わらず片膝を突き掌を上に向けたまま眼を見開いている。角度によって紫に光ることもあれば灰色の艶消しの色になることもある眼が見つめているのは天の一角であった。天の一角には何の輝きもない。天の他の部分を覆い尽くしている恒星や矮星や星雲は存在せずただ布で覆ったように平坦に黒い。  こうこう。  再び鳥が鳴いた。高い羽音をたてながら塚の頂上に飛んでいく鳥もある。頂上まで飛んで鳥はその者を嘴《くちばし》で齧《かじ》る。齧られてもその者は片膝を突き掌を上に向ける姿勢を崩さない。鳥の嘴によって鋭く齧られた皮膚からは薄く赤い血が数滴垂れる。一羽二羽が齧ると下で鳴き騒いでいた残りの鳥たちも一斉に羽音をたてて飛び上がりつぎつぎに血を滴らせる。びろうどの布の上に夥《おびただ》しい血が滴り赤く黒い模様をしるす。  鳥たちは殺到しうでくるぶしおとがいこめかみぼんのくぼみぞおちを齧りに齧る。  次第に身は傾きしかしそれでもその者は片膝を突き掌を天に向ける姿勢を崩さない。体の表面には鳥たちに齧られた穴が点々と散る。黒く深く穴はその者を覆い尽くそうとする。  一羽の鳥が眼を突く。  左の眼が失われた。残った右の眼で、その者はなおいっそう強く天を見据える。鳥たちの羽による風圧で不安定に揺れながら何もない天の一角を凝視する。  もう一羽の鳥が眼を突く。  右の眼も失われそれでもその者は天を見上げる。すでに体の大部分は虚ろな穴となり片膝を突き掌を天に向けているかどうかも定かではなくなっている。その者であったものはそれでもびろうどの布の上にとどまり天を凝視している。  こうこう。  最後の鳥のひと齧りでついに体は失われた。びろうどの布は主を失い鳥たちの羽ばたきによって天へと吹き飛ばされていく。塚は鳥たちの手に戻り発酵する塚の頂上にあったびろうどの布とその上に座る者によって隠されていた何十もの卵があらわになった。鳥たちは歓喜の声で鳴きたてる。  鳴きたてている鳥たちの気づかぬ間に夜は奥行きを増し深更を迎えた。  目に見えぬものとなったその者の気配があらゆる方向に広がり地と天の間を満たす。気配に包まれて夜はいよいよ更けに更け闇は真のものとなってゆく。   12 ブラックホール  何かがはじける音がして目が覚めた。隣で眠っていたはずの少女の姿が、ない。重い体を起こして見回すと、少女は木の股に腰掛けて遠いところを眺めていた。 「何が見える」聞くと、少女は手招きをする。 「見て」そう言って指さす方向には、大きな花火が上がっていた。  火の玉がするすると昇ってはじけ、赤や橙や緑の小さな光が雨のように散り広がる。何回でも花火は上がり、そのたびに少女の顔が照らされて赤や橙や緑に染まった。  行きましょうと言われて、少女に従った。少女は木の股から下りると、花火の上がっている方へ向かった。階段を昇るように何もないところをどんどん昇っていく。空中に向かってどんどん昇っていく。 「行きましょう」そう言いながら手を差し延べる。手を引かれてこわごわ足を踏み出すと、固いものが足の裏に触り、固いところを伝っていくと体が宙に浮いた。  どんどん歩いて、花火の横に達した。  近くに寄ると花火は熱い。服に火花が散って小さく燃えてはすぐに消える。かまわずにますます花火に近寄った。 「もっと行きましょう」少女は言って、手を固く握る。握られて、怖気づいた。 「やめよう」そう言ってみた。しかし少女は止まらない。 「突き抜けるのよ」ますます固く手を握る。  無理矢理引かれて、花火に突入した。 「もっともっと」と言われてもっと進んだ。嫌で仕方がなかったが、進んだ。進むうちにからだじゅうに火が飛び、火まみれになった。熱い。ひどく熱い。終いには焼けてしまった。少女も焼けている。二人で焼けて骨も残らなかった。 「なぜこんなことをする」怒っても、少女は黙っている。 「なんでもあなたの思う通りにしなければ気が済まないの」嵩《かさ》にかかって言っても、少女は黙っている。 「御免だ」言い放って、少女を置き去りにした。  行く先も決めないでずんずん歩いた。もう少女のことなど考えないようにした。何も考えないようにした。何も考えずに歩いていると、そのうちに言葉を忘れてしまった。何しろ体がない。脳もない。  ただ歩いてまた歩いてさらに歩いて、最後に夜よりもさらに暗い場所に辿り着いた。  辿り着いたとたんに吸い込まれ、もう出られなかった。少女と一緒にあのままいたらこんな場所に来なくてすんだだろうかということだけを少し思ったが、それ以外のことは何も思わなかった。  そのうちに少女のことも忘れてしまった。全部を忘れてしまった。ときどき自分の顔に似たものがこちらをじっと眺めているような気がしたが、すでに顔も体も何もかも無くなっていたので、果してそれが何者なのか、考えることはできなかった。できなかったし、それに、どうでもよかった。   13 象  永遠の象というものが西方にいると聞いたので、探すことになったのである。あまり気が進まなかったが、探すことに決まってしまっているのだった。一人で行くのは心細いので、何人かの知り合いに声をかけた。 「それ、何かの役に立つの」どの知り合いにも言われ、答えられないでいると全員がなにがしかの理由をつけて同行を断った。曰く、金融不安がありそうなので行けない、もうすぐ天変地異がくるので移動したくない、内縁の妻に子供ができたらしいので時期が悪い、八卦見に相談したら凶とでた、云々。  仕方がなく一人で出発した。  西瓜がやたらに生えている道をまっすぐに行くと広場に出て、そこに標識があった。  永遠の象、こちら。  矢印をかたどった標識に、そう書いてあった。  苦難の道を予想していたのに、いやにあっさりしている。矢印の方向に向かい、一時間も歩くと、すぐに象があらわれた。  小さな象で、耳が丸かった。何頭も連なっている。どの象も、白い。夜目にも、白い。  いったいどの象が永遠の象なのか、ぜんぜん判らなかった。試しに手近な象に向かって「こちら、永遠の象さんですか」と聞いてみると、大きく頷き吠える。象特有の声で吠える。  信用できないような気がして、もう一頭の象に同じことを聞くと、同じようにして頷き吠える。十頭ほどの象に聞いてみても、まったく同じ反応が返ってくる。  苛々して、先へ進んだ。進むにつれて象は増え、増えた象同士がますます絡まりあった。  そのうちに象たちが絡まりあうさまが何かに似ていることに気がついた。座って考えているうちに、それが曼陀羅であることがわかった。道の左側で絡まりあっている象たちは、金剛界曼陀羅をかたちづくっていたし、右側のは胎蔵界曼陀羅をかたちづくっているのであった。  騙されたような心持ちになった。ますます苛々して来た道を帰ろうとすると、道の両脇、象たちの絡まるところよりももっと奥にある森からわらわらと象使いたちが走り出て、引き止めにかかる。 「曼陀羅ですよ」 「それも金剛界と胎蔵界。めったにありませんぜ」 「ゆっくりしてってくだせえよ」  どの象使いも金襴の衣装を身に纏っている。しかしその衣装は古びており、金襴の糸もあちらこちらがほつれているのだった。 「もしもお嫌ならここは一つ、象使いになっちまう手もありますぜ」 「そりゃあいい」 「象使いはいいですぜ」  言いながら、どんどん金襴の衣装を着せかける。かなわないので、ものも言わずに逃げだした。  元の標識のところまで逃げて息をついていると、なんだか見知った人物があらわれて、決めつけた。 「なぜ逃げる」 「だって、曼陀羅、つまらないですよ」 「わたしは見たい。早く戻るように」  強く命令する。なぜこんな命令に従わなければならないのかと訝しく思いながらも、つい従った。 「早く早く。胎蔵界を特によく見るように」  さらに強く命令する。命令されて、象たちのいるところに戻った。ぜんぜん面白くなかったが、命令通りに右側の曼陀羅を特に念入りに眺めた。眺めているうちに眠くなり、眠った。しめしめ眠くなったと思いながら、眠りについた。夢の中で早く誰かに命令を下すのだと思いながら、眠りについた。   14 アレルギー  離れていると慕わしくなる。もう忘れたと思いながら、ひょっと思い出してしまう。おりがあるとすぐに思い出す。そういうわけで、少女のところに戻ることにした。  風の強い道をどこまでも戻ると、少女がいた。何もないところに椅子を一つ置いて、そこに腰かけている。煙草なんか吸っている。 「どうしたの」と聞くと、 「体質が変わったの」と答えた。  ためしに少女の髪を撫でてみると、乾いた砕片がいくつも飛んだ。ひと撫でするごとに、砕片がきらきらと舞い落ちる。綺麗なので、何回でも撫でた。 「もうやめて」と言われて止める頃には、髪がだいぶ薄くなっていた。  風に煽られて煙草の煙が四方に広がる。広がった煙がいちいちものの形になるのが、うっとうしかった。猫やら鼠やら鼬《いたち》やらの形になる。なった後は闇の中へと駆け去る。ときおり鼠が猫につかまってきゅうと鳴く声が聞こえるのもうっとうしかった。 「踊らないの」と聞くと、少女は椅子から立ち上がって身を寄せてきた。抱き合って踊っている間にふと見ると、髪が割れて覗く少女のうなじに、茸のようなものが生えている。小さな、赤い、笠の開いた茸のようなものだった。  ぞっとして少女を突き放した。  突き放されて、少女は下を向いた。無言で下を向いている。済まなく思い、また引き寄せた。肩に手をまわしてふたたび踊りはじめた。 「これね、増えるの」少女は言って、ますますうなだれた。 「何時間かに一回ね、胞子が散って、どんどん増えるの」  顔色が変わっているのが自分でもわかったが、踊り止めずに、ただ頷いた。  騒がしかった猫や鼠や鼬の声がやがて聞こえなくなり足が疲れてきた頃に、少女のうなじをもう一度見てみると、赤い茸は先ほどの二倍ほどの量に増えていた。 「増えてるよ」そう言うと、少女は顔を上げた。草食動物のような黒目がちの目が長い睫毛に囲まれる。くちびるはふっくらと色づき、うぶ毛の生えた頬から顎にかけての線がまるくたおやかである。 「あのね、あなたの首にもできてるわよ」少女は囁くような声で言った。  指で首の後ろを確かめると小さな突起が点々とある。その指を目の前に持ってくると、指にも茸の芽生えが見えた。 「あなたも体質が変わっちゃったのね」少女は息をつきながら言った。  嫌な気持ちが吐き気のようにこみ上げてきた。少女を揺すぶりたいような心持ちになったが、こらえた。 「仕方がないね」そう言って、踊りの足取りを早めた。くるくると踊っているうちに、茸が生長してくるのがわかった。丸い小さな突起だったものが、菌糸を増やしながら笠をつくり、やがてその笠がふわりと開く。開いた笠から無数の胞子がきらきらと舞い落ちる。舞い落ちた先に、また小さな茸が芽生える。  からだじゅうが赤い細かな茸におおわれていくのが感じられた。嫌だった気持ちは次第になつかしいような眠いような心持ちに変わっていき、終いにはすっかり茸になじんでしまった。  からだの表面にびっしりと生えていく茸を感じながら、踊りは速さを増してゆく。   15 キウイ  高い小さな声が聞こえたので下を向くと、キウイが喋っていた。 「ここで一つ問題」キウイ特有のきいきい声である。 「カナリヤを最も効率よく長生きさせるための餌は」  キウイは茶色でその茶色の中に点々と黒い種のようなものが散っていた。しゃがんで目を近づけると、種ではなく斑だった。 「わからないか、さあわからないか、正解は次の三つのうちの一つだ、アミメニシキヘビの卵、夜の鴉の鳴き声、分子量126の水ガラス」  呆気に取られてしゃがんだままじっとしていると、 「わからないか、まだわからないか、正解は分子量126の水ガラス、水ガラス」と叫んだ。驚いているうちにまた一匹どこからかあらわれて、聞く。 「昨年中に雷に打たれても生き残った者の数は」最初のよりも幾らか低い声である。 「わからないか、さあわからないか、正解は」  言いながら、輪を描いて地面を走り回る。 「二十億五千万人、二十億五千万人」  何回でも二十億五千万人を繰り返す。繰り返しながら、走り回る。  どんどん増えて、見回すとそっくり同じに見えるキウイが五十匹はいるだろうか、その五十匹が順番に質問を繰り出す。 「アンリ・ミショーがいちばん愛した自動パン焼き機の色は何色」 「しんばり棒とめんどり棒、どちらが本質的な存在」 「雨の日にいちばん暗くなる隅はどちらの隅」 「片栗粉の匂いと生クリームの匂い、どちらが曇りの日に遠く広がる」 「古代ローマの浴場で捨てられたあの丸い緑の石は今カンブリア紀の地層よりも何層上に眠っている」  勢いに押されて、こちらもつぎつぎに答えた。 「金茶色」 「めんどり棒」 「東南東の隅」 「片栗粉」 「十三層」  そのたびにキウイたちは「正解、正解、大正解」と叫び、五十匹が五十匹ともにくるくると走り回るのであった。  五十の質問に答える頃にはキウイもこちらも疲れ切って、息があがっていた。 「これだけ答えればもう満足でしょう」ぜいぜいしながら、キウイたちが言う。 「聞くから答えただけだよ」  そう答えると、キウイたちは「とんでもないよ」「まったくこれだから」「もうこうなったら」などと黄色い声で叫び返す。黙って聞いていると、調子にのっていくらでも叫んだ。 「そんなに言うならきみらひとまとめにして密輸業者に売っぱらっちゃうよ」  一喝すると、急に静かになった。 「何もそこまで」「そういうつもりじゃ」「悲しいことを」と、中の何匹かが小さく言う。 「もうきみらのようなものたちに夜の時間を左右されるのには飽き飽きしたんだ」  さらに大きな声で言うと、どのキウイも声を上げなくなった。声を上げずに足元の草をつついたり、茂みに隠れたりした。 「ぼくらも悪気はなかったんです」そう言いながら丸い小さな尻をこちらに向けながら、茂みに隠れる。  どこからか花の匂いが流れてきた。今咲いたばかりの花のようだった。西からの風に乗って、速く流れてきた。 「さようなら」と言いながら最後のキウイが茂みに消えると、花の匂いはますます強くなり、夜の空気がことりと変わるのがわかった。夜明けが少しずつ近づいているのであった。  しばらく花の匂いをかぎながら待っていたが、キウイたちの消えた茂みはしんと静まりかえっている。 「きみたち」とキウイに呼びかけてみた。 「悪かった、ちょっと短気だった」  そう呼びかけたが、キウイはもう出てこなかった。  花の匂いが、長く伸びてゆく。   16 フラクタル  かさかさと音がしていた。音は少女の体の中から聞こえた。  少女の腹に耳をつけて音を聞いた。草の上を歩くような、天球儀がまわるような、静かな音が同じ速度で続いていた。  少女は寝息をたてている。薄く匂いのない汗が、首筋や乳房の間を湿らせはじめていた。みずうみに水が満ちるように、汗は寝ている少女のくぼみというくぼみに満ち、溢れ落ちた。幾百もの汗の筋が少女の体を伝って地面を濡らす。  横たわっている柔らかな草の上で、少女は多くの汗をしたたらせた。  少女が横たわっている草が汗を吸って生長する。茎が伸び頂芽が枝となり側芽が葉となりみるみるうちに伸びていく。少女の体はまたたく間に生い茂る緑に囲まれた。  生長はそこだけにとどまらず、少女の横たわる地面から同心円を描くように外側に広がっていく。何千もの子葉が地面から芽生え、それぞれが若葉色の新芽を次々に開かせながら、ものすごい速さで伸びていくのである。  耳を澄ませると、かさかさかさという音が雨のように降ってくる。枝が長くなり、葉が開いていく、その音である。少女の体の中から聞こえていた音よりもさらに若々しい音である。  少女を囲む植物は濃くなり、森となっていった。森のもっとも深いところで、少女は眠り続ける。腹に耳をつけると、外から降ってくるかさかさかさという音に呼応するように、少女の体内でかさかさという音が引き続いている。  そのうちにかさかさという音はさらに増え、気がついてみると森の生長は止まっているのにあらゆる場所からかさかさは聞こえてくるのであった。  聞こえてくるかさかさは、足音だった。森の下生えを踏みしめる数多くの足音なのであった。  足音の主は森の住人で、多くの枝葉に邪魔されて姿は見えないながらも、風に乗ってやってくる足音の方向により、住人たちがどちらに向かって移動しているのかがはっきりとわかるのであった。最初は西へそれから南へ次には東へ最後は北へ、住民たちの足音は移り変わっていった。  何百もの足音は円を描くようにして森の中心に近づいてくるのであった。  近づくにつれて、足音以外のひそひそ囁きかわす声や咳払い、小さな笑い声やらっぱの音などが混じるようになり、そのうちに木々の隙間に住民の姿がちらちらと覗くようになった。  派手な鳥の羽根や極彩色の布が緑の間に見え隠れする。住民たちの声が聞き取れるくらいに大きくなり、らっぱや太鼓の音がいよいよ高まる。  ついに住民たちはその姿をあらわした。  どの住民も身長は一メートルほどで、丸い顔をしていた。きらびやかな布を体に巻き付け、手には楽器か長い杖を持ち、にこにこしていた。全員が裸足で、いちように口をもぐもぐさせていた。何かしらを食べているらしいのであった。どの住民の口のまわりも、食べたものがこびりついて汚れている。丸い顔で、口のはたに食べかすをこびりつかせながら、住民たちは横たわる少女のまわりを丸く巡った。  少女は眠り続けている。住民のたてるかさかさという裸足の足音に共振するかのように、少女の体の中からのかさかさという音は、さらに高まる。  住民たちは円を描いて行進しつづけた。これ以上円の半径を狭められないくらい少女に近づくと、同じ円周上を繰り返しぐるぐると回りはじめた。  足音と、お喋りをする押し殺した声と、太鼓の音と、らっぱの音と、食物をもぐもぐ噛む音が混じり合って、森の中心を満たす。  空の高いところに明けの明星が光り、その下で住人たちは飽きずに円運動を行った。そのうちに回っている住人たちの体が細かく振動するように見えはじめたと思ったら、一回りするごとに住民たちの体はどんどん縮みはじめているのであった。  いったん縮みはじめると、縮小は見る間に進み、終いには蟻ほどの大きさになってしまった。蟻ほどになっても、まだ住民たちはひそひそと喋りあい、らっぱを鳴らし、太鼓を叩き、もぐもぐと噛んだ。  蟻の大きさになって何周かした後、住民たちは一列になって少女のからだにもぐり込み、消えた。  最後の住民が見えなくなってから、眠る少女の腹に耳をつけると、かさかさいう音に混じって、かすかならっぱの音と太鼓の音が聞こえてくるのであった。   17 獅子  もうすぐ夜明けが来るというので、祝宴になった。  川のほとりの屋敷に、見知ったような顔が何人も招かれた。気安い者同士なので挨拶もなく酒が始まり、てんでに肴をつついた。酒盗とうるかが卓の中央に山盛りになっているのが気にかかったが、誰も手をつけようとしないので、目の前にあるきんぴらや川魚を焼いたものばかりを食べた。  そのうちに屋敷の主人が立ち上がり軽く顎を上げた。途端に厨の方がざわつき始め、前掛けをした女や角刈りの男が何人も走り出た。どれも卓を跨ぎ越しては庭に逃げていく。跨ぎ越しかたが下手な者もいて、そのたびに銚子が倒れたり皿が割れたりした。  酒を飲んでいる者たちは気にしていない様子で、立ち上がっていた主人も再び座って、きぬかつぎなんかをむしゃむしゃ食べている。  何時間もたったような気がして時計を見るとまだ夜明け前で、東の空は真っ暗だった。調理人たちが逃げてしまったせいか、肴がもう無くなってしまっていた。しかし卓の中央に盛ってある酒盗とうるかだけには、まだ誰も箸をつけようとしない。  きん、というような音が聞こえたと思ったら、厨の方から大きな影があらわれ、卓を飛び越した。実体のない、影だけのものなのであった。その影が、きん、と吠えては部屋の中をうろうろする。  ときどき影は主人の膝にのぼって主人の頭をくわえた。影にすっぽりとくわえられると、主人は首から上がないようになる。首から上がなくとも、主人はさかんに酒を飲んだ。影の中に隠れたまま、酒を飲んだ。  主人の顔をくわえ終わると、影は客たちの顔を順番にくわえていった。どの客も首から上がないようになった。影がくわえ終わってからも、顔はないままである。主人をはじめ大方の客の顔がなくなったところで、影は卓の中央の酒盗とうるかに気がついた。  ひらりと飛んで、影はうるかを食いはじめた。むさぼるように食う。大皿いっぱいに盛られていたうるかはまたたく間になくなり、うるかが終わると影は酒盗にかかった。こちらも、数秒とたたぬうちに空になった。  すべてを平らげると、影は左右を見渡す。首から上がなくなった客たちは、まだぐすぐすと酒を飲んでいた。その客たちの、こんどは首に取りついて、影は客の飲んだ酒を吸った。客の体の中にたっぷりと溜まった酒を、吸った。一巡りして主人の体の酒まで吸い尽くしてしまうと、影はいよいよこちらにやってきて、頭を喰らい酒精を吸った。吸われて気が遠くなった。あまりの快さに気が遠くなった。  自分の成分がすべて影に飲み尽くされた頃に、影はかたちをとりはじめた。金のたてがみが最初にあらわれ、首から胴、柔らかな肢そして尻尾にかけての流れるような毛並みが見事な、それは獅子であった。  獅子は卓を蹴り、庭へ飛び出した。東の空が薄い色を持ちはじめている。その東の空に向かって、獅子は走った。全速力で、走った。走りながら、夜の中で出会ったあまたの生きものたちを喰らっていった。  すべての生きものが喰らい尽くされ、獅子が東の空の彼方に消えてしまうと、主人は座を締め、客たちは三々五々散っていった。  夜が明けはじめていた。   18 アポトーシス  少女はすでに少女ではなくなりつつあった。  僅かの間にその肌は紙のようになり、瞳の色は透明になった。手足の先が幾つもの枝に分岐し、髪は抜け落ちた。  地面に横たわったまま変わりゆく少女を、眺めた。  なんだかわからないものに変わってゆく少女を眺めているうちに、忘れていたことを思い出しそうになった。忘れていることであるから、どんなことなのだかさっぱり判らないのだが、今にも思い出しそうになるのであった。 「あなた」と少女に話しかけた。 「なに」と、なんだかわからないものになりつつある少女は答えた。 「あなたは以前からそんなふうなものだったかしらん」 「そんな気もするけれど」  答える声はむろん少女の声ではなく、なんだかわからないものの声なのである。高いような低いような、木のうろの中で響くような、声だった。  変わってゆく少女を見ているうちに、悲しいような心持ちになって、泣いた。 「どうしたの」と少女だったものが聞いた。 「変わってしまったから」と答えると、少女だったものは、笑った。 「だって、そういうふうにできているんだからしょうがないわよ」そう言って、笑った。  笑い声を聞いているうちに、ますます悲しくなった。 「まだ泣いてるの」 「そう」 「でも生まれたら最後はこうなると決まっているんだから」 「知らなかったもの」 「あなただって同じよ」  そう言われて自分の手足を見ると、少女と同じように無数に枝分かれして木とも網ともつかないようなものになっていた。肌は表面がぼろぼろと崩れ、抜けた髪が地面に降り積もった。  憮然として、抜け落ちた髪を足で蹴ろうとしたが、無数に分かれた枝のようなものが竹箒のように髪をかき集めるばかりだった。 「どうしてだろう」そう問うと、少女だったものはまだ笑いながら、 「老化したのよ」と答えた。  とうに沈んだはずの月が、夜の始まりのときと同じように、東の空にするすると上った。月は見る間に中空に移動し、それから西へと沈んだ。  見ていると、ふたたび月は東の空に上り、しかしこのたびの月はさきほどの新月よりも少しだけ太っていた。そうやって、ものすごい速さで月は上ったり沈んだりしながら満月になり、その後は欠けていった。 「あの月みたいなものか」 「違うわよ」 「違うか」 「だって月はまた新月になるもの」  茶色い蝶がいくつも飛んできて、少女にとまった。少女は喋りやめ、目を閉じた。蝶は翅を開いたり閉じたりしながら少女にたかり、それからまたどこかに飛んでいった。  疲れたので、少女の隣に寝そべった。寝そべったまま、上を見ていた。月が上がったり下がったりする空を、大きな獅子が飛んでいった。きん、という獅子の吠え声を聞きながら、少女だったものに接吻をした。それから、すっかり老化して、朽ちていった。   19 イモリ  始まるよ、という高らかな声が響くと、大勢の人が集まってきた。街灯夫が人の波に逆らいながら、長い棒で街灯を消していく。  森の木が伐り倒され、川は埋め立てられた。丘だったところは削られ、谷だったところは平らにされた。整地が終わると、集まった人々はてんでに懐からのこぎりや金槌や鑿《のみ》や鍬《くわ》を取り出し、伐り倒された木や削られた砂を使って町をつくり始めた。  穴を掘っては柱を地中深く埋め込む者や木片を組んで塔を建てる者や砂を固めて宮殿をつくる者たちのたてる音が、耳を聾さんばかりである。  見る間に町ができあがった。町ができあがると人々は口笛を吹きながらのこぎりや金槌や鑿や鍬をしまい、その場に座り込んで、自分の建てたものの自慢を始めた。  日が高くなるまで自慢合戦が続き、ようやくそれにも飽きると、人々は弁当を取り出して旺盛な食欲でたいらげた。  一人が昼寝をするために横になると、つぎつぎにごろりと横たわり、大きな鼾《いびき》をかきはじめた。すべての人が眠ってしまうと、わたしは水面に顔を出し、空気の匂いを嗅いだ。  金臭い匂いがした。前肢と後肢を交互に動かして、ゆっくりと地面を進んだ。肢が短いので、遅々としてはかどらなかった。わたしの後ろをわたしの仲間である多くのイモリたちがつき従った。  ようやく町の中心に着くと、昼寝をしている人々の顔に乗ったり塔にはりついたり弁当の残り滓をあさったりした。なにしろゆっくりとしか進めないので、そんなことをしているうちに、夕方になってしまった。夕方になっても、人々はまだ眠っている。仲間とともに、眠っている人々の肉をひと齧りずつしてから、また水に戻った。人々は齧られたことも知らずに、眠りほうけていた。  水に戻ると、ふんをしてから藻を舐め、気が向くと卵を生んだりした。どろりとした沼が静まると、わたしたちも眠りについた。泡のようないくつもの夢を、夜の間に見るために、深い眠りについた。  あ と が き  何かを書くのは大好きなのですが、ほんとうにあったことを書こうとすると、手がこおりついたようになってしまいます。  ほんとうにあったことではないこと、自分の頭の中であれこれ想像して考えたことなら、いくらでもつるつると出てくるのですが。  自分の書く小説を、わたしはひそかに「うそばなし」と呼んでいます。  ここに収められた三篇の「うそばなし」は、1995年の後半から1996年の前半にかけて書いたものです。最初に「惜夜記」、次に「蛇を踏む」、最後に「消える」を書きました。 「うそばなし」を書いているときには、顔つきもうそっぽくなり、そんなときに誰かが話しかけてきたりしたら、うそばっかりぺらぺら言うような気がします。 「うそ」の国に入り込んでしまっているのでしょう。 「うそ」の国は、「ほんと」の国のすぐそばにあって、ところどころには「ほんと」の国と重なっているぶぶんもあります。「うそ」の国は、入口が狭くて、でも、奥行きはあんがい広いのです。  小さいころから「うそ」の国でしばしば遊んできたので、あんまり他の遊び場所を知りません。もしも「うそなんて、だめよ」と禁止されたら、からだをこわしてしまうかもしれません。遊ばなきゃ、からだも気持ちも、へんになります。  テニスもせず、ヨガもせず、オートキャンプにも行かず、さかあがりもできず、たいがいの空いている時間は「うそ」の国で遊びほうけているわけで、客観的に見て、健康的な生活とはいいがたいです。でも、これでずっと育ってきてしまったのだから、しかたがありません。  もしもこれを読んでくださるかたの中に、「うそ」の好きなかたがいらしたら、わたしの作った「うそ」の中でちょっと遊んでみてはくださいませんでしょうか。そうしてくださったら、とても嬉しいのです。  どうぞよろしく。  1996・7・29                     川上弘美 初出誌 「蛇を踏む」文學界 平成八年三月号 「消える」野生時代 平成八年三月号 「惜夜記《あたらよき》」文學界 平成八年九月号 単行本 平成八年九月 文藝春秋刊 底 本 文春文庫 平成十一年八月十日刊